ホーム > 芦屋ユネスコ協会 > 芦屋ユネスコ協会の歩み

芦屋ユネスコ協会 創立75周年記念誌


クリックしていただくとPDFファイルがご覧になれます。

2023年12月発行(PDFファイル)



芦屋ユネスコ協会の歩み

戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。                   <1945年「ユネスコ憲章」より>

 

■ユネスコ精神の源流
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)憲章は、第二次世界大戦後の昭和20年(1945年)にロンドンで採択され、翌年に発効し、ユネスコが創設されました。わが国は昭和26年(1951年)に加盟しました。
当時、日本はまだ国際連合(国連)には加盟しておらず(日本の国連加盟は昭和31年)、ユネスコはわが国の国際社会復帰の最初の場となりました。
なお、日本の民間ユネスコ活動はユネスコ加盟前の昭和22年(1947年)から行われており、現在も世界の民間ユネスコ活動の推進力となっています。また、世界初の民間ユネスコ協会が発足したのもわが国であるとされています。

 

■芦屋ユネスコ協会(協力会)誕生
芦屋ユネスコ協会は昭和22年(1947年)に発足し、爾来70年間の永きに亘り、ユネスコの精神に基づいた活動を続けてきました。
日本の終戦の年にあたる昭和20年(1945年)11月、心の中に平和の砦を築いて、戦争という人間が作り出す悲劇を再び繰り返さない世の中を作るために、国際連合教育科学文化機関、つまりユネスコ(United Nations Educational Scientific and Cultural Organization)の頭文字「UNESCO」が創設され、日本はパリに本部を持つこの機関に昭和26年に加盟しました。
さて、昭和20年(1945年)、国連にユネスコが創設された当時、第二次世界大戦中には敵国外国人の制約を受けながらも8年間滞米していた湯浅八郎先生(帰国後の同志社総長)は、昭和21年(1946年)10月、第1回日本人送還船の中で日本にユネスコの必要性を感じて、同年11月に帰国後、直ちに資料を携えて芦屋市楠町の三田谷治療学園長であった三田谷啓氏を訪ねユネスコ協力会について相談、そして両氏は廣瀬勝代氏(現芦屋ユネスコ協会名誉会長の母)にその創設を要請したのです。
その要請を聞いた勝代氏の夫・豊一氏は、氏の中学時代からの親友であった森戸辰男氏(文部大臣・後に日本ユネスコ協会連盟顧問)に話したところ、直ちに森戸先生が駐日ユネスコ代表の李照謀博士と共に廣瀬家を訪れ、 重ねてユネスコ協力会設立への協力を勝代氏に要請されました。
しかしそのころ、廣瀬勝代氏は兵庫県連合婦人会長として、食糧事情・復員軍人・戦争裁判・原爆遺児への救済など戦後問題に忙殺されていたため、ユネスコ協力会設立にその力を注ぐことができませんでした。
そこで、勝代氏は仙台に在住の従姉妹・氏家愛子氏に事情を話したところ、その趣旨に賛同した氏家愛子氏が日本で最初のユネスコ協力会を仙台の地に発足させることとなったのです。
一方、芦屋市でも市会議員の川越氏に依頼して市内在住の有識者を集め、ユネスコ協力会を結成しました。
芦屋最初の会長は丹羽俊彦氏、副会長に仁田勇氏、理事長に川越清氏、事務局長に古林秀雄氏、そして学生クラブが20名で発足、 全国初の成人セミナーなど活発な活動を展開しました。
しかし昭和25年(1950年)ころになると、学生クラブの学生が卒業・就職などの内部事情や茂木事務局長のご逝去など、発足3年後には活動の継続が困難になり、学生クラブのOB達による要請により広瀬勝代婦人会会長が芦屋ユネスコ協会の会長となり、伊藤秀三氏(伊藤病院の初代院長)が副会長に、芦屋市の村上邦雄氏を事務局長として再びユネスコ活動の活性化に取り組んだのです。
ユネスコにわが国が加盟した昭和26年(1951年)、連盟も各地のユネスコ協力会も以後“ユネスコ協会”に名称を変更することになりました。また、この年、政府機関として日本ユネスコ国内委員会が設置されました。

 

■芦屋ユネスコ会館
芦屋ユネスコ協会の活発な活動を耳にした駐日大使ライシャワー氏は、デンバーで催された全米ユネスコ大会に 日本ユネスコ協会代表として廣瀬勝代会長と現名誉会長の廣瀬忠子氏(当時は秘書)を招待したのです。
これを機会に、コロラドユネスコ協会会長エリザベス・H・ローズ婦人と知り合い、コロラドユネスコ協会との書簡の往復、絵画の交換など活発な交流が行われ、会長同士の個人的な交友関係も深くなるばかりでした。
このローズ婦人が5万ドル(1800万円)もの大金をご寄贈くださり、これを契機に兵庫県ユネスコ会館建設委員会が出来、金井知事がその代表となり、 県下婦人会会員50万名や近隣のユネスコ協会からも100円募金を通して多くの支援を受け、 さらに芦有開発KKの金井社長のご厚意により奥池に1,000坪の土地を提供いただき、昭和39年(1964年)東京オリンピックのときに、 芦屋ユネスコ会館がオープンしたのです。この会館にはホール・会議室・宿泊設備もあり、特にこの時代に宿泊設備が少ないこともあって、秩父宮妃殿下・高松宮妃殿下はじめ外国の要人も多く迎えるといった輝かしい歴史を築いてきたのです。
このユネスコ会館の運営は、芦屋婦人会と日赤奉仕団並びに芦屋ユネスコ協会が常に表裏一体となり25年間、宿泊客の三度の食事、ベットメイキング、洗濯など、ボランティアという言葉がまだ使われていない頃に本当のボランティア活動を続けてきたと同時に その精神を教えられたのです。
昭和59年(1984年)、廣瀬勝代氏の逝去に伴いこの会館は芦屋から県の婦人会の手に委ねられ運営されたのですが、徐々に経営が困難となり売却せざるを得ない事態となりました。売却後には火災により全焼、そして現在では県の管理下のもとユネスコ会館基金として信託されています。

 

■芦屋ユネスコ活動活性化準備会
県の運営となったユネスコ会館でボランティア活動を続けてきた芦屋ユネスコ協会でしたが、その後婦人会のバックアップのもと活動を続けてきましたが、時代と共にメンバーがカルチャーセンター・テニス・ゴルフなど趣味のサークルへと流れ、その運営も難しくなり足踏み状態となっていた平成7年(1995年)に阪神・淡路大震災が起こり、会員数の激減と会員の高齢化に伴い、暫くの間ユネスコ活動は中断していました。
平成12年(2000年)4月、芦屋市教育委員会生涯学習課から呼びかけがあり、廣瀬忠子氏・山田利郎氏など10名が集まり、「ユネスコ協会活性化に向けての準備会」が開催されました。以後数回の準備会が開催され、その後の事業計画や役員の選出、また運営について話し合いました。そして、同年8月31日、芦屋市民センター301室において「総会」を開催、廣瀬忠子氏を会長に、事務局長には山田利郎氏を選出し、22人の役員が中心となり再スタートを切ることになりました。

 

■21世紀の芦屋ユネスコ協会
平成12年(2000年)8月に再スタートした芦屋ユネスコ協会の新事業には、多くの女性から一般教養を高めるセミナー開講の要望があったことから「レディス・セミナー」を発足させ、活動の柱としました。このセミナーは大変好評を得たため、平成29年(2017年)3月に閉会するまでの長きにわたり続けられました。
また、同年には学生クラブも「世界遺産セミナー」など活発に活動を開始しましたが、学生の卒業等に伴い徐々に活動は困難となり、現在は休会中となっています。
また同年10月10日には阪神間ユネスコ連絡会の「合同事業」を芦屋が担当(阪神8ユ協が毎年交代で担当)し、『ユネスコ世界遺産としての姫路城』と題した講演会(講師:菅原美文氏)を開催しました。
そして12月には「年末講演会&親睦会」に外務省特命全権大使に講演をいただいて開催しましたが、これは70周年を迎える現在まで続く新たな伝統となっています。
このほか、協会ホームページの開設や「AU通信」(年4回発行)もこの年から始まり現在に至っています。
平成13年(2001年)には「世界文化遺産見学ツアー」を開始、平成14年(2002年)には「書き損じはがき」の回収開始、平成14年(2003年)からは「平和の鐘を鳴らそう」行事が始まり、毎年8月15日には芦屋市民センターの玄関横に市民が集い、正午のサイレンで黙祷、芦屋市婦人会によって寄贈された『優愛の鐘』をみんなで鳴らし、戦没者への追悼と平和への祈りを捧げています。
平成18年(2006年)<民間ユネスコ運動発祥60周年>からは、毎年「民間ユネスコの日」(7月19日)街頭PR活動も実施されるようになりました。そしてこのころから民間ユネスコ運動の運動方針として、「つなげよう 平和の心~共に生きる世界を目指して、学び・行動する民間ユネスコ運動へ~」を掲げ、「『平和の文化』実践活動」・「世界寺子屋運動」・「世界遺産・地域遺産活動」を3つの柱として活動を進めていきました。
平成20年(2008年)には、それまでの芦屋ユネスコ協会の功績に対し「芦屋市民文化賞」が授与されました。
また平成21年(2009年)11月には、学生15名で青年部を発足させました。
さらに平成21年(2009年)からは「市民が選ぶ芦屋の未来遺産運動」がスタート、翌年5月には市民にアンケートを実施し、同年10月にはその結果をまとめた冊子「みんなで選んだ 芦屋の未来遺産~芦屋文化の100年リレー~」(62ページ)を発行。平成25年(2013年)11月には、その補完・解説版(145頁)を発行しました。
平成22年(2010年)には、芦屋ラポルテホールで「合同事業」を開催。外務省特命全権大使・田邉隆一氏に「私の海外経験と日本の役割」と題して講演を、また第2部では日本ヘルマンハープ協会理事長・梶原千沙都氏とスペシャルオリンピックのアスリートメンバーによる「ヘルマンハープ演奏会」を実施、好評を得ました。
平成28年(2016年)には役員改選を行い、廣瀬忠子氏を名誉会長とし、会長に山田利郎氏、事務局長に塩井君子氏を配し、22名の役員で芦屋ユネスコ協会の運営をしていくことになりました。
平成29年(2017年)、芦屋ユネスコ協会創立70周年を記念し、さまざまな記念事業を開催することとなっています。