伊丹ユネスコ会報No.44 2005年6月発行

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ユネスコ日本語教室
  今年は戦後60年となる節目の年である。昭和20年8月15日、敗戦による混乱の中、
国の内外で多くの悲劇が生まれた。特に、元満州中国東北部においては、肉親を亡くしたり、生き別れた幼子達は3,000人を超えたと聞く。
 厳しい飢えと寒さの中で取り残されていたが、幸いにも温かい中国の人々によって命が救われた。その後も、幾多の困難があったことと推察されるが、中国の文化・言語に親しんで育てられた。昭和53年日中平和友好条約が調印され、残留孤児調査が始まった。日中友好手をつなぐ会兵庫県支部長(故)山城龍さんの尽力で、孤児とその家族が伊丹、宝塚、尼崎などに定住するようになった。父母の国、日本での生活に憧れをもって帰国したものの生活習慣は異なり日本語も分からず、憧れは直ちに不安に変わったという。
 伊丹ユネスコ協会は、そんな彼らに週5回の教室を開き日本語習得の支援をしてきた。
 開講して20年目を迎え、残留孤児支援のための教室は、今、中国だけではなく数か国の外国人が学んでいる。写真は会員や市民の参加による土曜日の教室の様子である。
 この春、韓国からの社会人留学生の1家族が任期を終えて帰国した。家族5人で熱心に通われ、父親は日本での異文化体験を率直に話し、ある外国人スピーチ大会で大会賞を受賞された。誠に嬉しいことである。母親も別れに際し、涙ながらに「皆さんのお陰で楽しかった。ありがとう。」と述べられた。反日の報道の後ろに、韓国人も中国人も仲良くしたいと思っている人が多いと信じたい。語学学習だけでなく、これまでに異文化交流として、韓国のチヂミ、中国の水ギョーザ、トルコのチャイなど味わい楽しんできた。3月には、日本の手巻きずしを披露したく、すし飯・具など材料は分担して持ち寄った。海苔を手に好きなネタを巻いて「おいしい!」「きれいね!」と、見せあう姿は微笑ましく、先の家族とのお別れ会も兼ねた形となった。4月には昆陽池公園でお花見、満開の桜のもと、学習中の生徒に加えて、巣立っていった生徒の家族も集まった。
 私たちは、定住であれ、滞在であれ、学習者の各々の人生を少しでも支援できたらと使命を強く感じている。今では国籍も中国、韓国、ベトナム、トルコ、オーストラリア、コロンビア、フィリピン、インドネシア、アメリカと多様で、お互いにまだ十分ではない学習中の日本語で対話している。
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