ユネスコサロン
−鎌倉大仏物語−

 青空の澄みわたる初秋の土曜日(10月21日)高徳院客殿にて大仏様についてのお話を聞きました。
 

 参詣者で賑わう境内の右側にある木戸をくぐると、そこは静かな和の佇まい。客殿はいっぱいに光が射し込んでほっとする広い空間でした。ガラス越しには手入れの行き届いた庭園が拝見できました。
 講師は、結婚なさって依頼40余年の間毎日大仏様をお参りなさり、お守りしてこられている佐藤美智子氏。「大仏様は謎だらけなんですよ」とおっしゃりながらも、
たくさんお話しくださいました。
 最も早い記録は吾妻鏡に、1238年「浄光の企てにより大仏堂造営の事始が行われた」とある。これは木造であった。1252年には同じ場所に銅造仏(今の大仏様)を造り始めたという記録があるが、この間の経緯ははっきりしないらしい。いずれにしても浄光聖の尽力は大変なものであったろう。しかし一人の僧の力でできうるものではなく、政治的社会的意図を持って北条氏が大きく関与したであろうと考えられるが、これについての資料はないそうです。興味深かったのはある侍女の話。「1195年頼朝一行は東大寺の大仏の供養に出かけている。ここで頼朝は鎌倉にも大仏を造りたいと考えた。後年頼朝の祈願を果たさんと奔走したのが稲多野局。この侍女の篤い思いを受けて北条氏や浄光が行動を起こしたのではなかろうか。真の発願者は庶民の一女性・稲多野局かもしれません。」
 台風や地震で荒廃著しかった大仏様を復興するために立ち上がった方が、中興の祖といわれている増上寺祐天上人と資金面で支援した浅草の商人野島新左衛門(18世紀始)。 後に養国上人が二人の宿願を引継ぎ高徳院に入って修復を完成させたのだそうです。
 それにしても11.3m・122tもの大仏様はどのように造られたか、平成13年の発掘調査でわかってきたようです。本来軟弱な土地はしっかり整地されていました。鋳造方法は下から上に向かって何回かに分けて銅を鋳込んでいったのだそうです。大仏様の周りの土層から大仏様はこの場所で造られたことが確証されました。鋳物師たちの名もわかっています。大仏殿の礎石を据えた基礎も見つかり、大仏殿の大きさは、44m×42.5mであったことがわかりました。大仏様造立から750余年。どれだけたくさんの人たちの心血が注がれてきたことか。露座ながら造立当時のままの慈悲深いお姿が保たれていることに民衆の強い信仰心と歴史の重みを痛感した次第です。
お話の後、高徳院様のご配慮でお茶が準備されていて、山田雅子さん手作りの栗の和菓子で歓談しました。鎌倉大仏縁起一冊を全員がいただきました。 (関根)

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