1997年9月25日ユネスコ文化講座
ユネスコの語るもの~民間ユネスコ運動発祥50年によせて

文明の交差路で考える
講師 ユネスコ本部事務局長顧問 服部英二氏
主催目黒区教育委員会・主管目黒ユネスコ協会

目黒ユネスコ加藤会長挨拶

 本日は、ようこそお出でくださいました。私ども、服部先生をいつお迎え出来るかと心待ちにしておりましたところ、やっと今日、先生をお迎えすることが出来ました。先生につきましてはユネスコのメンバーはよく存じ上げておりますが、ご紹介させていただきます。

 1934年名古屋でお生まれになりました。その後、京都大学大学院の博士課程を修了。1961年フランス政府の給付留学生としてソルボンヌ大学の博士課程に留学、そして在仏日本大使館で教育・文化担当としてお勤めなさいました。

 ご帰国の後、目黒にございます…目黒区には国立教育研究所・東京都立教育研究所・目黒区教育研究所と教育研究所が三つありますが…国立教育研究所に勤務され、その後、私ども民間ユネスコ運動の全国組織でございます社団法人日本ユネスコ協会連盟の事務局長をお勤めになりました。

 1973年より、ユネスコのパリ本部に勤務されました。この間、広報部の次長、主席広報官文化担当特別事業部長などをご歴任なさいまして、大変多くの働きをなさいました。シルクロードのことも後でお話いただけると思いますが…。

 1994年ご帰国後は、ユネスコ本部のマヨール事務局長の顧問、千葉にございます麗澤大学客員教授(1998年4月よりは同大学教授)、帝塚山学院大学国際理解研究所の客員教授、べ一タシステムの相談役、日仏教育学会の理事、国際比較文明学会等の会員であられます。国際的に大変なお働きをされていらっしゃいます。そして、今回、ガンダーラからつい先日お帰りになったとお聞きしました。

 1995年フランス共和国より学術教育功労章を受賞なさいました。つい最近、「文明の交差路で考える」という講談社の現代新書を発刊されました。このご本は大変私どもの指針となっております。その他に、フランスのマイユ社から「人間・科学・自然」というご本(フランス語版)を出版されるなど沢山のご著書がございます。今年は、民間ユネスコ運動が発祥して50年になりますが、その記念講演として、今日、服部先生をお迎え出来ました、短い時間ではございますが先生のお話を承りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。


[講演要旨]

■民間ユネスコ運動発祥50周年の意義ということ

 ただ今、ご紹介いただきました服部でございます。目黒のユネスコ協会とは非常にご縁がありまして、先ほど加藤会長からお話がありましたように、大変短い間ではございましたが、1971年と72年、日本ユネスコ協会連盟の事務局長をやっておりました時に、加藤いさ子さんが目黒ユネスコ協会の会長をなさっておられました。理事会などで、たびたびお目にかかったことがあります。

 それから長らくパリで勤務しておりまして帰って来ましたら、その頃、お嬢さんだった加藤玲子さんがその後を立派に引き継いで、しかも非常に多彩な活動をなさっておられる、民間のユネスコ運動の中核は国際理解にありますから、その事業を立派にやっておられることを大変嬉しく思っております。

 今日は、民間ユネスコ運動発祥50周年ということで、このユネスコ講座は大変意義のあることだと思います。初めての方のために、ユネスコの機関につきまして申し上げますと、戦前、国際連盟というのがありました。この国際連盟から日本が脱退するところから、第2次世界大戦が始まるのですが…。この国際連盟の中に知的協力委員会というのがありました。これは自ずから出来た機関なのです。パリに本拠を置きまして、そこにベルクソンとかアインシュタインとかマリー・キユーリーとか、またタゴールとか、当時のトップの頭脳が集まって、将来のためには、知的な協力を国際レベルで行なわなければいけない、ということを話し合ったのです。この国際知的協力委員会の幹事を勤めたのが日本人です。誰だと思われますか、新渡戸稲造。今、5000円札に載っている新渡戸稲造さんなのです。それで、新渡戸さんは私の先輩にあたるわけです。なぜならば、この国際知的協力委員会がユネスコの前身なのです。

 ユネスコというのはどうして造られたのでしょうか? この不幸な第2次世界大戦のあいだ、1942年の段階ですでに、ドイツ軍の空襲下にあったロンドンに、当時のイギリスの文部大臣エレン・ウィルキンソン女史の呼びかけで、連合国の亡命政府の文部大臣が集まりまして、灯火管制の下で会議を開いたのです。それでは、灯火管制の下でどういうことを話し合ったのかということですが、ここのところが、私がいつも感じているところなのですが、それからまだ戦争は3年も続くのですが、もう既に戦後の教育復興をどうしたらいいのかということを、何度も話し会っていたのです。

 その頃の「進め一億火の玉だ」「鬼畜米英」をやっていた日本と比べて見ますと、その時、向うのロンドンに集まった人達は、戦後の教育をいかにすべきかということを話し合っていたのです。それで、戦後すぐにロンドンでユネスコの創立総会が開かれるのですが、そこで採択されたユネスコ憲章の第一番に出てきた言葉が「戦争は人の心の中に生まれるものであるから、人の心の中にこそ平和の砦を築かねばならない」という言葉で、これはユネスコ憲章前文の冒頭の言葉です。これが採択されるのですが、その議論はその前、灯火管制下のロンドンで3年も続いていたのです。

 その時に議論されたのが、こんなに愚かしい戦争はなぜ起こったのだろうかということでした。それは結局、他民族の文化に対する無知ではないのか。無知、他の文化を知らないということです。その無知が偏見を生み、偏見が憎しみを生む、憎しみが心の中に生まれて来る、それが他の要因で、たとえば経済とか、いろんな要因で爆発して戦争になる、ということなのです。

 このことに対する大きな反省が、ユネスコ憲章前文の冒頭の言葉になっているのです。こうしてユネスコは、今から50年前にパリで発足したのです。 ロンドンの設立総会でのフランスの主席代表レオン・ブルームの強い勧誘もあり、場所はパリと決まったのです。

 その当時、日本は敗戦の結果占領下にあったのですが、いち早く日本の民間人で、ユネスコの理念に共鳴する人が現れて来ました。一つは仙台、一つは京都です。この二つがトップだったのですが、土居光知先生とか、桑原武夫先生とか、大学の教授を初めとして、更に上田康一氏のような人々が民間ユネスコ運動、ユネスコ協力会というものを作ったのです。戦後いち早く、ユネスコが成立した6か月後に作っているのです。

 その動きが認められ、パリのユネスコ本部の知るところとなり、視察団が何回か来るのです。東京でおこなった全国大会を見て、これは本物だと、日本のそういうことをやっている人は本当に立派な人達だと、だからこれは認めなければいけない、ということになったのです。

 ということで、日本はユネスコに1951年に加盟するのです。これが日本の国際社会への復帰の第1号です。ユネスコヘの復帰が第1号なのです。しかも、その引き金となったのが民間運動なのです。民間運動をユネスコ本部の人々が評価したのです。ただ今は、目黒のユネスコ協会でお話していますが、民間ユネスコ運動とは、そういう非常に重要な役割を負った、日本が国際社会に復婦するという、非常に大きな役割を担った運動なのです。

 純粋に政治的機関である国連への復帰というか、入会、加盟は、それからまだ5年かかっているのです。そういう経過がありますので、民間ユネスコ運動発祥50周年の意義というものは深いと思います。


■文化遺産ということ

 私は、長らくユネスコに勤務して世界中の国をまわり、主に文化、今でこそ話題になっておりますが、文化遺産または世界遺産とも言っていますが、その人類の遺産に対する意識の涵養に努めてきました。これも面白いですね。日本は世界遺産の条約には、1992年にやっと加盟するのですが、これは条約が成立してから20年も経っているのですね。

 世界遺産条約は1972年に成立していますから、どうしたことか、日本はちっとも批准しない。ということで、これ又、日本の民間運動が我々と手を組んで、メディアを動かして、なぜ批准しないか、というキャンペーンを張ったこともあるのです。そういうことも利いたらしく、やっと1992年に批准しました。法隆寺、姫路城、屋久島、白神山地が最初の文化遺産に登録されました。と、途端に、こんどはどんどん各メディアが書く。その前20年間、何ををやっていたかということですね。日本は自国のことに関しない限り、関心を持たないという非常に特殊な国なのです。

 このようなことは、ユネスコのこういう会合などでいろいろ研鑽なさる方は、徐々に脱却していっていただきたいと思うんですが…。どうも日本にある意識、内と外と言いますか、日本のことが出ていないと、もはや事件にもならない。メディアの報道も似ていますが、この間のペルーの人質事件、日本人の人質の数ばかり言っている。こういうことはおかしいのでして、人質の数は全部で何人で、その中の日本人は何人というのが正しいのだろうと思います。日本のニュースというのは、ちょっと、我々がフランスやイギリスや他のところのメディアで聞くのと変わっている。ですからなおのこと、このような国が国際社会に仲間入りをするためには、今日の皆さんのように国際理解のための情報を学んだり、また行動を通して、すべての日本人が本当の国際人になっていただきたいと思うのです。


■「文明の交差路で考える」ということ

 先程ご紹介のありましたこの本は、講談社の現代新書で手に入り易い本ですので、是非読んでいただきたいと思いますが…。 最近、私が気が付いたり考えている大きなことが、意外な近さをもって結んでいることをお話したいと思います。一つは、最近これも2か月前に亡くなったジャック・イヴ・クストー氏。フランスの偉大な海洋探検家です。大きな葬儀がノートルダムでシラク大統領も出席されて行われました。

 この人が、海を通して、地球の環境間題に本当の警告を発した筆頭の方なのです。この人が言ったことがあります。それはイースター島のことです。これは彼の最後の言葉になっていますので申し上げますが、「人類が今進んでいる道を変えなければ、地球はイースター島の運命を辿るであろう」というのです。

 これからその意味を申し上げたいと思います。それからも一つは、私が1週間前まで行っていた「ガンダーラ」です。パキスタンの奥、インダス河の上流です。この2つのことは全然結び付きが無いように思われますね。ですがこれが結び付きを持っているということを、シルクロード的な考察から申し上げたいと思います。

 先ず第1にジャック・イヴ・クストーさんが…日本にも最近、日本クストー・ソサエティがやっと生まれたのですが…彼が言ったイースター島の例はこういうことです。

 イースター島というところは、1700年代にオランダ人によって発見されるのですが、この南海の孤島は裸の島なのです。裸の島に巨大なモアイ像が立っている。しかも、モアイ像が転んでいる。モアイ像が累々と転んでいる。そして数百人という原住民が細々と暮らしている。発見したオランダ人たちは、彼等の祖先がモアイ像を作ったなどとは信じられなかった。それほどミゼラブルな生活をしていた。で、そういう事がなぜ起こったのか、ということを、クストーのチームがイースター島に行って、海から陸から全部調査をするのです。クストーの答えは、これが非常に大切なのですが、イースター島にこういう破滅をもたらしたのは、木を切ったからだ、と言うのです。

 皆さん、南の海に行かれた方も大勢おられると思いますが、すべての島に椰子の木とか森林があります。椰子の実は浮かんで流れますから、イースター島のようなところへ辿りつく。船がつけば椰子の実も辿りつく。あらゆる島には少なくとも椰子の木があり、その他の植物も生い茂っています。イースター島の文化を作った人々も、かっては恐らく、3世紀か4世紀にポリネシアから漂着した人達でしょう。やはりこの人々は、豊かな島を発見して、木を使いながら生活していたでしょう。木が無かったらあのモアイ像も立たないのです。この人達は、大きな文明を享受していたに違いない。その人達は、17世紀ごろには、その人口が約2万人に達していたと思われるのです。その時なにが起こったのか?

 ここのところが大切なのです。かれらは、部族間で戦争を始める。この島には戦争があったのです。あそこには、耳の長い部族と耳の短い部族がありまして、その二つが戦争を始める。殺し合いが起こる。これは、地球にとっても非常に象徴的なのです。その間に、自分たちの祖霊の象徴であるモアイ像、これは守護神ですから、相手のモアイ像を引き倒す。ですからモアイ像は、オランダ人が発見した時には全部倒れていた。今、日本人などが協力して立て直しているのですが、モアイ像というのは、6mから大きいのは8mくらいある巨大な像なのです。

 そういう戦争が起こった。まさしく、ユネスコ憲章前文冒頭の「戦争は人の心の中に起こるものであるから…」。戦争が起こって、殺し合いをした、ということなのです。なぜ、殺し合いをしなければいけなかったかというと、資源が枯渇したからです。端的に言って、食べるものが無くなったということです。そうすると殺し合いが続く。

 では、なぜ食べるものが無くなったかというと、木を切ったからです。これが一番の原因です。木を切ると川が細ります。木を切ってしまうと川が無くなるのです。雨は木の根元に蓄えられる。だんだん、木の根が雨水を蓄えて、森林が川を作ってくれるのです。木の根元に含まれているバクテリアが、その他の微生物を養う。微生物が小魚を養い、小魚が大きな魚を養い、エコサイクルが続きます。そして、その川の水が海に注ぐことによって、海もまた生命の豊かな海になっていくのです。

 木を切ると川が無くなる。川が無くなると海が死ぬ。だから結局イースター島には漁業も無い。あった筈の漁業が無い。船を作る木さえ無い、という状態になったのです。そのことを実証したジャック・イヴ・クストーは、人間が今のやり方を変えない限り、地球自身がイースター島の運命を辿ることになる、と警告しているのです。

 現在、環境間題に関心を持っている方は多いと思いますが、この環境間題は、ユネスコの抱えている大きなテーマの一つでもあるのです。ですからユネスコの自然科学部局は、クストー・チームとも結んだブロジェクトを持っています。

 考えてみますと、こういうことです。熱帯雨林は過去100年の間に面積が地球上で半減している。ちょうど半分の面積しか残っていない。毎日、生物の種、これは植物も動物も昆虫もすべてなのですが、毎日50種類が消えていく、という状態が現在起こっている。ですから、このことを本当に我々は、真剣に考えなければいけないと思います。今、真剣に考えなければいけないのは「自然の征服」という考え方です。どうして、こういう理念が生まれてきたのか、いま切実に、反省する時期にかかっている思います。

 このことは、人類の歴史の中で、ほんの一瞬の出来事だということを、これから申し上げたいのです。人類は生まれてから約400万年の歴史を持っている。猿人、原人、これはアフリカの東海岸で生まれ、これがだんだん広がっていったのです。

 これを伊東俊太郎氏は「人類革命」、すなわち初めて地球上に人類が出現したのを人類革命と言っています。その次に起こる大きな革命は何かというと、今から約1万2000年前に起こった「農業革命」です。初めて人類が穀物を作るという農業革命、これは洋の東西を間わず、ほぼ同じ時期に起こっています。最近日本では、縄文文化が間題になっていますが、これは約1万2000年前の縄文時代のことなのです。

 その次に起こった大きな革命は、約4500年前に起こった「都市革命」、その時期に世界の各地に都市というものが出現する。実際には、文明ということを言いますと、英語でシヴィライゼーション(civi1ization)、フランス語でシヴィリザシオン(civi1isation)と言います。このシヴィル(civi1)というのは、ラテン語のキヴィタス(civitas)という言葉から来ています。キヴィタスというのは都市のことです。ですから文明ということは、必然的に都市化という意味を含んでいる。したがって、文明史を専攻する人はここから始めるのです。約4500年前、エジブトの文明、メソポタミアの文明、インダス河の文明あるいは黄河の文明、長江の文明、これらはすべてこの時期のものです。約4500年前から約5000年前に起こった一つの革命です。

 それに対して、もう一つ大きな革命が起こる。それを伊東俊太郎は、「精神革命」と呼んでいます。これは約2500年前に起こったものです。約2500年前になにが起こったかというと、インドに釈迦が生まれる。中国に孔子が誕生する。ギリシャにソクラテスが生まれる。同時期なのです。それから、ヘブライの地に予言者が出現するのが、だいたいこの時期です。将来の人間の精神史を位置付けるような、偉大な思想が同時発生的に生まれて来たことに着目して、ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、それをアクセンツァイト(枢軸の時代)と呼んだのです。これが人類の精神革命と呼んでもいい時期なのです。それをイエス・キリストまで延ばしますと、大体今から約2500年前から約2000年前、ちょうど、イエス・キリストまでが約2000年前です。大体それぐらいの幅を取ってもいいと思います。それが精神革命の時代です。

 このようにして、人類はずっと発展して来たと思われますが、もう1つの、非常に重要な革命を経験する。これは17世紀に起こった「科学革命」です。この過去に起こった5つの革命、その最後のものが科学革命なのです。

 最初からもう一度申し上げますと 1、人類革命:約400万年前 2、農業革命:約1万2000年前 3、都市革命:約4500年前 4、精神革命:約2500年前 5、科学革命:17世紀のヨーロッパ。

 これまで不思議なことに、すべての革命が同時発生的に世界中に起こっているのですが、科学革命だけは、ヨーロッパのみに起こっている。このヨーロッパ型の科学が世界を制覇していく、という形を世界史はとるのです。

 科学革命の特徴の一つに挙げなければいけないものとして、機械論的な宇宙観と言いますか、つまり宇宙という存在、地球という存在をまるで機械のように見る目、その機械論的な宇宙観が生まれまして、すべては、科学の対象になるという自信をヨーロッパの人々は持つようになる。その時に出てきた一つの態度というのが、自然というものは征服すべき対象である、ということなのです。

 それまでのヨーロッパの人々、特にヨーロッパの先人であるケルト人などを見てみますと、ノルディックの人々あるいは森の民であるゲルマン民族を含めて、みんな自然と共生してきたのです。ケルト民族などその最たるものです。非常に人間の考え方が、日本人に近い。ほんとに情緒的な詩的な民族です。それがヨーロッパの原住民なのです。

 科学革命を革命という所以は、17世紀から精神的態度が変わるからです。それまで神学と理性・自然科学というものが、拮抗しつつ、やっとバランスを取っているのが、この17世紀で完全に自然科学の前に神学が破れるのです。自然科学というものの優位が確立するのがこの時期なのです。そこから、デカルト、ニュートンという人に象徴される、いわゆる科学主義というものが生まれるのです。これが、世界人類史の中で非常に大きな出来事であると私は考えています。

 先ず、「自然というものは征服すべき対象である」という一つの立場、それから進歩(Progress)ということが可能だという信念、これは非常に大きなことです。そのころから「進歩」という観念が、19世紀に至るまでもう絶対の揺るぎない観念として定着するのです。進歩ということと反対のことを言おうものなら馬鹿にされる、そういう時代が続くのです。

 この立場を言葉を変えて言いますと、「男性原理の価値観」と言い換えてもいいかと思います。理性の優位を謳う立場です。ですから、理性に比べてたとえば感性ですが、感性というもの、情緒というもの、宗教心、あるいは倫理に至るまですべて下位に置かれる。理性というものが、すべての上に立つという立場、これは一つの立場なのです、それが確立されて来る。それが植民地主義の時代、ちょうど17世紀から20世紀の時代だったのです。考えますと、17・18・19世紀、いわゆる植民地主義華やかなりし頃、その価値観が世界を覆う、これがやはり人類にとって、大きな出来事であったと考えます。

 それが結局、宇宙船地球号を破局寸前まで導いた原理であろうと私は考えております。それと同時に、科学の進歩によって、どういうことが起こったかというと人口爆発です。約400万年かかって、人類がやっと10億人という人口に達するのが西暦1800年なのです。1800年に10億人。それが1900年に17億。2000年で何人になるかというと60億人なのです。カーブを描くと、ここのところから、急上昇しているのです。この増加率・この曲線を見ると、何か起こるだろうと考えるのは少しも不思議ではない。なにかが起こるべき曲線を示しているのです。ですから現在、人口間題を考える人は、2050年というこの年を最後の年としているのです。つまり、西暦2050年に地球上の人口は100億人に達するのです。

 この、2050年における地球上の状態はどうかというと、絶対的な水の不足、食料の不足が起きる。そしてこの後どうなるかというと、カーブは急降下する。私は大分まえ梅棹忠夫さんとお話してお聞きしたのですが、これはウジ虫の増え方に非常に似ている、と言われるのです。ということは、フラスコの中におがくずとか、条件を良くしてウジ虫を飼いますと、どんどん増える。そのうち、一定の数まで増えると自分で死んでいく。自己破壊を起こしていく。それが、ここのところなのですが、2050年に100億人に達する。これが限界でしょう。ここで減り出すという観測を国連などもやっているのです。減り出すのですが一つの間題点は、その減り出し方は平和的にではない。非常に悲観的な形を取るのではなかろうか、ウジ虫のように。ですからここのところで、人口を緩やかに減らす方法は無いのだろうか、ということです。急上昇からすぐ急降下でなく、緩やかに持っていかれないだろうか。今、こういうことを多くの人が考えているのです。

 しかしながら、それには現在の原理でまかり通っている科学主義の残滓、あるいは進歩の概念を反省せねばなりません。進歩(Progress)というと、なにも反対出来ないように思われるでしょう。しかしながら、プログレスという言葉は、非常に危険な言葉なのです。evo1ution(進展)と言えばいいんですが、プログレスという言葉は一方性をもっているのです。時は一方性を持って一直線に進むという、非常にキリスト教的な概念です。キリスト教が悪いというのではありません。キリスト教は立派な宗教です。私自身もキリスト教の洗礼を受けています。しかし時が一直線に進むということは、初めがあって終わりがあるということです、必ず終わりがあるということなのです。それが、progressという語の隠している概念です。それに対して、evo1ution (進展)という曲線的な概念に、これからは変えて行かなくてはならないのではないかということを、多くの人が考え始めています。

現在日本でも、環境破壊についていろんな記事が出ていますが、やはり、熱帯雨林というような酸素の供給源が過去100年の間に半減しているということ。そして、排気ガスで地球が温暖化する、フロンでオゾン層が破壊される、というような非常に切実な間題が次々に起こっています。実は人類の歴史から見ますと、ここに述べた科学革命以来、現在までの時間帯というものは、人類の時間に直しますと、人類が生きた時間、約400万年の実に1万分の1なのです。1万分の1の間に起こった出来事なのです。この1万分の1の時間が、我々が今環境破壊をやっている時間なのです。人類史から言いますと、1万分の1の時間帯のせいで、1万倍の時間を生きて来た人類が、消滅するかどうかという事態に現在至っている、と言えるのではないかと思います。ですから、この誰もが疑わなかった進歩という概念、いわゆる矢のイメージですね。矢が飛んで行くイメージですね。時が一方性を持っているというイメージ。それを変えなければいけない。

 その会議は、首相、閣僚経験者が十数名出席した会議です。私は日本の代表として、そこに呼ばれたのですが、なんとアジアの人だけでなく、ヨーロッパの人、アメリカの人達も、今、見直すべきものは、部族的エゴイズムであるナショナリズム、そして市場原理であると言う。フリーマーケット、これはアメリカが高々と掲げている原理ですね。それでもって東南アジアヘもその他の世界各地にも、どんどん進出しようとしているのです。 それに対しての、批判・反省の言葉が出ました。バレンシアに集った人達、有識者が言うことに、今までの自由主義という、男性の原理に代えて必要なのは、コンパッシヨン(Compassion)である、これがキーワードです。将来の世界を律する言葉はCompassionでなければならない、というのです。

 このCompassionという言葉は非常に面白いんです。フランス語でも英語でも同じです。「Com」は「共に」、ここにパトス「Pathos」という言葉がはいるのです。このパトス(Pathos)という言葉は、ロゴス(Logo s)の反対語でして、理性に対してこちらは感情、あるいは情念です。パトス(P athos)がパッシヨン(Passion)になるのです。パトス(Patho s)を分かち合う。情感を分かち合うことが必要です。 このコンパッシヨンという言葉は、実は宗教的に用いられる時、どういうところで用いるかというと、仏教の「慈悲」という言葉に当たるのです。

 ヨーロッパの人達がバレンシアの国際会議で、・・・アジアの人達は非常に少数派だったのです、私を含めて3人しかいなかった・・・そのような会議で彼らが言ったのは21世紀の原理はCompassionでなければならないと。これは慈悲です。共感と訳してもいいのですが…。 これはどういうことかと言うと、今まで機械論的に世界をリードして、自然を破壊して来た原理を、理性のみによる男性原理としますと、人間の中の情操とかフィーリングとかそういうものを見直し、他人の持っているフィーリングに自分が共感する必要が出てきた、ということです。このアプローチというのは、実は女性原理の見直しと言ってもいいかと思います。

 日本の文化というのは、元来、女性原理に立っていました。それが明治以来、植民地主義的なヨーロッパとの出会いの中で、だんだん、男性原理に変形していったのが、ついには軍国主義に至りつき、これが悲惨な敗戦を招くのです。しかし本来日本は、天照を中心とした国ですから女性原理なのです。ですから、ここにいらっしやる皆さんの中に、女性の方が非常に多いのですが、女性が持っている本当の美しさ、その力というのが21世紀を救わなくてはいけない。こういう時代に来ていると思います。その点を心ある男性も、本当に自覚しなげればいけない時代に来ていると思います。 そのことについて、私は別のところに書いたのですが、女性原理というのは、感性と響きあう理性のことだと私は言いたいのです。

 右脳と左脳ということを、角田忠信さんの本で読まれた方もあろうかと思います。右脳は芸術的な脳、左脳は理性的な、論理と数学を扱う脳ということになっていますが、そのあいだが、相互に融通し合うような脳。それが感性と響き合う理性だと私は申し上げたいのです、

 緒局、20世紀が戦争と破壊の世紀であった、ということから言いますと、21世紀は、「機械の原理」から「生命の原理」への転換、それが求められていると言ってもいいのではないかと思います。

 私がフランスで会った人の中で、クストーさんもそうですが、非常に印象を受けた人が多くいます。その中に、アンドレ・マルローという人がいます。この人は、作家であると同時にレジスタンスに参加してドゴール大統領の下で文化大臣をやった人です。彼が私に語ってくれた言葉の中に・・・・、皆さんは今日これからフランス語を勉強されるそうですので書きましょう。(*このユネスコ講座は「やり直すフランス語」に先立って行われたものです)

 "Le 21ème siècle sera spirituel ou ne sera pas" これがアンドレ・マルローさんの言葉です。「21世紀は、精神的なものになるだろう」その後の訳なんですが、どうしますか?「或いは、そうならないかもしれない」と、こう訳しそうになるのですね。ところが、そうじゃないんです。「21世紀は、精神的であらねばならない、しからずんば、その世紀は存在しないであろう」  これが正しい訳です。ここにフランス語の特徴があるのです。「ou ne sera pas」の「neとseraの間に」に「le」が入って「oune le sera pas」ですと、「spirituel(精神的)であるか」あるいは 「spirituel(精神的)でないかもしれない」となるのです。「le」がない元の「ne sera pas」は、英語の「to be or not to be」の言い方なのです。21世紀は「ne sera pas」存在しないであろう。だから、精神性を取り戻さなければ、21世紀は存在しないだろう、ということをアンドレ・マルローは言いたかったのだと思います。彼と話をしていて私の心に残った言葉です。つまりマルローの場合、人類が存続するには、21世紀に、再び文化の世紀が訪れなければいけないんだ、ということを言っているのです。そして更にこの文化というのは「対話の文化でなければいけないんだ」と私は申し上げたいのです。この対話の文化というのは、私がこの本の中に書きました一つのテーマでありますが、すべての文化というのは、対話の上に成り立つ。文化と文化が、文明と文明が出会う。出会いによってそこに子供が生まれる、というやり方で文明というのは発展して来たわけです。その流れを非常に良く現わしているのがシルクロードであります。

  実は私、今から12年前に、ある用件で中国の北方の砂漠の上を飛んでいた時、僚友と「渺々(ビョウビョウ)たる平原に道(シルクロード)が隠れている。その道が東西を繋いで、初めて今の人類文明というのが生まれた。その国際的研究というのがユネスコの使命ではないか」ということを話し合いました。

 この本の中にもそれを取り上げていますが、国際チームによるシルクロード調査というものを12年前に発想して、10年前から執行して、私が退官する直前にそれがやっと終わったわけです。そのシルクロードの精神というものが対話の道であった。文明間の対話の道であった。それは、先程申し上げたように17世紀から優位に立ったヨーロッパがとった、文化を輸出するあの態度とはちょうど逆なのです。シルクロードの交易というのは、詳しいことは、この本を読んでいただくと良くわかるのですが、三つの特徴をもっていて、それを私は研究の中で、大体、自分なりにピックアップしたつもりですが…、その第一は、売りに行ったのではない、文化を押しつけていない、ということです。反対に文化を、良きものを求めて行ったのです。それが、この道を作っていくのです。これが先ず第一です。

 二つ目は、その交易において、「頒かちあい」ということをすべての人が知ったということです。「頒かちあい」は独占の反対です。これが第2点です。

 第3点は、シルクロードの交易が初めから国際的な行為だったと、いうことです。国際的、混成部隊なのです。民族がすべて相乗りでいく。このような三つの特徴を、私はピックアップしました。

 その一番最初の、文化というものは求めていくものだ、ということですが、文化はそれを吸収する方が成長するのです。文化というのを輸出して、威張っている国というのは文化的帝国主義と言われますが、実は、そのことは非常に愚かな行為なのです。文化を輸出して、自分が頂点に立って、支配しているような気がしているかもしれませんが、歴史的に見ていきますと、頂点に立ったと信じたこういう国は、すべて滅び去っているのです。

 文明とか文化というものは、吸収しなければいけない。吸収する方が育つという性格を持っているのです。ですからシルクロードでいいますと、たとえば、中国人が絹を売りに行ったのではなく、ペルシャの隊商が中国まで絹を買いに行く。仏教の経典について言いますと、中国のお坊さんは、たとえば法顕、玄奘三蔵は、長安から出発して天竺・インドにお経を探しに行くのです。自分が求めて行く。この良きものを求めて行くという旅が、シルクロードの道なのです。ですから、すべてが文化的帝国主義の逆をやっているのです。そういう最初の姿を、このあいだもガンダーラで見たのです。

 私は、このシルクロードの調査で、ステップの道、オアシスの道、一番大きな海の道、オマーンの国王が自分の船を提供してくれまして145日の航海が出来たのですが、色々な困難を越えて、総じてすばらしい全面的な調査が出来たと思っています。

 しかし、一つだけ、やりたいと思っていて出来なかったことがあります。それは仏教伝来の道でした。仏教伝来の道というのは、インド、厳密に言いますと、今のネパール、ルンビニで生まれた釈尊の教えの伝わった道です。インドで生まれた仏教が、ガンダーラに行きます。ガンダーラというのは今のパキスタンの北部です。そこで、なにが起こったかと言うと、ヘレニズムと出会うのです。ヘレニズムというのはアレクサンダーの道をたどります。紀元前4世紀アレクサンダー大王がギリシャから東の方へ遠征しまして、インダス河まで行くのです。インダス河上流のタクシラというところまでアレクサンダー大王は来るのです。そこに道が開けていまして、東方に、アレクサンダー大王の帝国が凋落した後もギリシヤ人が残っています。特にバクトリアという国が残るのですが、それが入って来たガンダーラの地に行きますと、いわゆる仏教のみならず、ヒンズー教、ギリシャの神話、ゾロアスター、マニ教すべて集まっている。このカンダーラの地で、初めて大乗仏教というものが誕生するのです。

 仏教の歴史を非常に簡略に言いますと、紀元前6世紀の仏陀釈迦牟尼の仏教というものは、世界的なものには、すぐならなかったのです。インドにおいて一つの集団になっていた。それが紀元前3世紀インドのマウリア王朝のアショカ王が仏教徒に改宗して、仏教の庇護者となる、その新しい文化の中心がまさしくガンダーラの地なのです。ガンターラまで軍隊を率いて行ったアショカ王が、人を沢山殺すということに、非常な空しさを感じていた。その時、仏教のお坊さんに話を聞き、忽然として自分の非を悟って改心する。そして、そこに仏教の教えとしての「生き物を殺すなかれ」、に始まる最初の5か条の勅令というものを石の上に書くのです。その石が今でも残っています。

 アショカ王は、もともとヒンズー教徒だったのです。その彼が仏教徒になるその地がガンダーラなのです。アショカ王は紀元前3世紀の人で、彼のおかげで仏教は暫く興隆するのです。しかし、その頃作っていたのは、実際にはスツーパ・仏塔だけでした。仏塔以外に無いんです。仏教の象徴は、仏塔だけなのです。仏塔だけで仏教はずっと約500年間やってきたのです。ところが、西暦1世紀クシャナ王朝のもとこのガンダーラの地で仏教はヘレニズムと出会う。そして、なにが起こったのかというと、初めて仏陀がイメージ化される、すなわち仏像になるのです。

 仏像というのが、なにから出て来るかというと、ギリシャの彫刻から出て来るのです。こんどガンダーラに行かれましたら気がつくと思いますが、いろいろの美術館に、実際に、ギリシャの神々が並んでいる。ギリシャの神々と、仏教の菩薩とが一緒に並んでいる。これは非常に面白いですね。そこに文明の出会いというのもがあったのです。そしてそれが結局、大乗仏教というものになっていく。だから今のインドの地でなく、ガンダーラの地で大乗仏教というものが生まれるのです。このことに、典型的な文明間の出会いということが見られます。

仏教が非常に隆盛になるのは、ヘレニズムあるいはペルシャの宗教というような別の文化に出会った時です。この出会いにより、非常に普遍的な力を得て仏教が行進していく。ついには長安のみならず朝鮮半島、日本に到着する、ということが起こるのです。ですから、仏教ひとつにしても、私は西と東の出会いと言ったのですが、ガンダーラの地で本当に、西方のギリシャ的な世界、つまりヘレニズムと東洋的な思想である仏教が出会うのです。そして「形をとる」ということが起こる。もし、そのことが無かったら、仏教は恐らく世界的な宗教になるということは無かったと思います。これは、一つの例として申し上げたのでして、すべての、優れた文明というのは、一つの出会いを持っている、出会いでもって発展していく、こういうことが言えるのではないかと思うのです。その端的な例としてあげたのが、ガンダーラです。

 このことを考えると、最初に申し上げたクストーの警告、地球はイースター島のような運命を辿ってはいけないという警告は二重の意味をもってくるように思われるのです。10世紀にわたり他から孤絶していた文明、出会いを持たなかった文明、ということが一つ。そして人間の無知が自らの環境破壊となり、ついには人間同士の殺し合いになった、ということが二つ目です。このことが今申し上げた人類の第5の革命、すなわち科学革命后のいわゆる科学主義という唯一の文化価値に律せられた人類1万分の1の時間帯に起こったことと重なってくるのです。その1万分の1の時間というものは、何であったのか、というと、それは男性原理である。機械論的な宇宙観である。それが地球と人類を破滅寸前に追いやっている。それに対して、将来見直すべきものは女性原理であり対話の精神ではないか。ということから、クストーが取り上げたイースター島の例と、文明の対話ということを象徴しているガンダーラとは、遠いようで結び付いている、と私は思うわけです。


■ユネスコに係わる者の自覚

 将来、皆さんがこうやって、ユネスコの活動を進められる中で、私のお手伝い出来ることがあったら言っていただきたいと思います。是非皆さんは、21世紀のユネスコのリーダーとなっていただきたいと思うのです。それでもって、少しでも意識の改革をやっていただきたい。何とならば、我々の改革というのは、実際には意識の改革以外には無いからです。ユネスコが取り組んでいるのは、意識の改革以外には無いのであって、私が今申し上げたような新しい価値観というものを、マヨールさんは「平和の文化」という言葉で表しています。

 今まで、20世紀を律して来たのは戦争の文化と言えると思います。それに対して、21世紀には、人類は、新しい価値観を築かなければいけない。それが平和の文化なのです、この平和の文化というものを追求するには、我々は過去を振り返って、我々の先人達が生きて来た、特にシルクロードの心、いわゆる東西の文明をここまで興隆させた文明への最大の貢献度を持っシルクロードに流れていた心を見直さなければいけない、ということを私は申し上げたいと思います。

 今日はここで、私の話を終わらせていただきます。


文責編集:研修活動委員  芹沢英男

参考資料:『文明の交差路で考える』服部英二著

講談社現代新書1256