ユネスコ文化講座
 
 ユネスコ文化講座は、ユネスコ活動の普及を目的として、年5回、目黒区教育委員会主催、目黒ユネスコ協会主管で開催されるものです。本年度第一回の講座は、東洋英和女学院大学教授 平山正実氏に「生と死を考える」というテーマでお話を伺いました。
 平山先生は、大学生、社会人を対象に死生学・生命倫理学の講座を持たれており、また精神科の外来も行っていらっしゃいます。
 
    「生と死を考える」
 
講師 平山正実 氏 東洋英和女学院大学教授
         精神科医
日時 平成13年6月6日(水)18:30〜20:30
会場 守屋教育会館
 
はじめに
 本日は、目黒区教育委員会及び目黒ユネスコ協会の文化講座で話をする機会を与えられ、光栄に思っております。
 私は、横浜市立大学医学部を卒業し、出発は精神科医でしたが、自治医科大学に参りまして医療人間論の講座を担当し、そこで人間の生命倫理ですとか生と死とかを、特に医学部の学生に講義をすることになったのが、この種の問題に関心を持つに至ったきっかけです。それから栃木県でホスピス運動を支える会という市民運動の団体を立ち上げ、そこで生と死に関する啓蒙運動を地域の医者や看護婦さん達と展開してまいりました。そして今から8年前に、東洋英和女学院大学の社会人向けの大学院で死生学という学科目を立ち上げるから手伝ってほしいということで東京にまいりまして、現在に至っております。今も精神科の外来の方はずっとやっておりますが、他方でこのような研究をしております。
 死生学とか、生と死の教育といったことは、皆さん耳慣れない言葉かもしれませんが、それがどのように発展してきたのかといった点について、最初に考えてみたいと思います。
 
1.病院と地域に開かれた生と死の教育
 私が以前に奉職させていただきました自治医科大学では、図書ボランティアというシステムがあります。主に主婦の方ですが、各病棟にいろいろな本を持っていく仕事です。これが1つの大きな全国的なうねりといいますか、流れになっています。
 考えて見ますと病気の先には、死があるわけで、病気で入院するということは、闘病という言葉が象徴するように、辛い作業ですけれども、この期間は時間はあるんですね。あまり人も来ない。人間の生とか死とか、いかに生き死ぬかといったことを考えるには、絶好の時間なわけです。しかしベッドの上で寝ていて、本を買いに行くわけにはいかないわけですから、図書ボランティアがワゴンサービスで持ってきてくれた本の中から、適当なものを読むというシステムが生まれました。
 また、アメリカですと、地域に読書グループが随分たくさんあるようです。図書館に行きますと、読書の相談コーナーがあって、自分は、こういうことを考えているんだけれど、こういう問題に関係する本を紹介してくれないかというと、それにふさわしい本を選んで持ってきてくれるというシステムもあるようです。このような流れの中で、在宅で闘病生活をおくっている患者さん若しくはご家族に本を配るというボランティアグループもあります。そして、患者さんやご家族が読まれる本の中に、生と死に関するものが沢山入っています。
 
2.教育現場における生と死の教育
 アメリカではすでに1963年にミネソタ州立大学でDeath Educationに関する講座が開設されたということですから、今から約38年ぐらい前にこういうことに関心がもたれ始めたということだと思います。そして1967年ぐらいから、幼稚園、小学校、中学校、高校などで系統的に生と死の教育というものが、行われるようになりました。現在大学内に、死の教育と研究のためのセンターが独立して設けられているところもあります。死に関する「Death Education(後にDeath Studyと改名)」という雑誌もでておりまして、アメリカでは、そういう研究が非常に盛んです。
 日本でも最近は、上智大学のアルフォンス・デーケン先生を中心とした、東京・生と死を考える会の中で、小中高の先生方が集まって、こういう勉強会を精力的にやっておられますし、死の臨床研究会、緩和医療学会、日本臨床死生学会などが出来てまいりまして、生と死の教育や死生学に関する研究も高まりを見せております。
 青少年の学校教育の中でDeath Educationの必要性について論じられるようになりました直接のきっかけは、1995年に起こった皆様ご存知の「阪神淡路大震災」或いは「神戸市須磨区の小学生連続殺傷事件」です。兵庫県と神戸市の教育委員会は「心の教育緊急会議」を開きました。そのあたりから生と死というものを、学校教育の中でどう教えたら良いか、心的外傷性ストレス障害や命の尊厳ということをどう考えるかといった問題に一般の人々も関心を持つようになりました。最近は、今までは家庭科とか保健体育とかで教えられておりましたこの生と死の問題というものを、小中高の中の総合学習というカリキュラムの中で教えていこうという動きがあります。
 
3.生と死の教育が必要な理由及び教育内容
 次に生と死を考える動機づけ(incentive)について考えてみたいと思います。 (表1参照)1番から7番目までの項目を深く考えていけばいくほど、生と死の教育という問題の大切さがお分かりになると思います。
 Death Educationの教育カリキュラムの中で必要と思われるものを掲げておきました。(表2参照)
 
 表1 相談者が抱える課題とその社会的背景

1)生と死を体験する機会が少なくなった。
a)核家族化・拡大家族の減少
b)病院死の増加、在宅死の減少
C)在宅で出産する人が少なくなった
D)葬儀産業の発達による葬儀手順の簡略化
2) 医療技術の進歩
a)遺伝子医療に関する生命倫理上の問題
b)生殖医療や末期医療に関する生命倫理上の問題
3) 高齢化、生活習慣病、精神障害の増加
a)慢性疾患の顕在化
b)死や病への不安を長期間かかえて生きなければならない現実
4)自殺、殺人、人工妊娠中絶、事故や災害に
よる死者などの増加
5)戦争、原子力事故、環境破壊に伴う死の問題の多発
6)共同体の崩壊
孤独死、過労死の増加
7)仮想現実による劇化された死の体験の増加
(マスコミの影響)


表2 内容項目

1 死の過程
2 加齢
3 死の原因
4 死の判定
5 臓器移植
6 安楽死
7 植物人間
8 ターミナルケア、ホスピス
9 死を受容するまでの過程
10 死にゆく人々への支援
11 悲嘆の過程
12 悲嘆の過程にある人々への支援
13 死の告知
14 自殺
15 葬儀、埋葬
16 遺言書
17 戦争と死
18 文学における死
 
 
4.スピリチュアルケアについて
 WHO(世界保健機構)の健康の概念というものがあります。まず第一に体が健康でなければいけないということ、これは当然です。それから心理的にも健康でなければいけない。さらに社会的な健康ということも大切です。この三つがWHOで取り上げている健康概念を構成する要素です。
 最近、WHOの中近東圏の委員から、まだ正式には認められていないのですが、スピリチュアルな健康ということがあるのではないかということが言われ始めています。
 これはどういうことかと申しますと、身体的な健康の場合は、例えばビールスが飛んできて口の中に入る。その結果感染症をおこして感冒になる。エイズウイルスが入ってくるとそれが原因で病気になる。輸血によってビールスが入ると肝炎になるとか。これは、あるAという原因があってBという結果になるという因果論で解決がつきます。それから心理的な健康とはどういうのかというと、例えば家庭や社会環境が悪いから子供にいろんな問題行動がおこるのだというふうに、この場合も因果論で説明できることが多い。企業から公害物質が出て、公害病が生まれる。これも因果論で解けることが多いと思います。いずれも原因があって結果が起こる。これらは科学の枠組みで問題解決できるケースが多いのです。
 ところが自分が病気になって、痛いところや苦しいところがあると、なぜ自分だけこんな辛い目にあわなければいけないのか、なぜ生きていなければならないのか、自分の生きている意味はなんなのか、自分が死んだらどうなるのか、自分の生き甲斐ってなんなのか、といったことは因果論ではどうも解けない。そういうのはむしろ目的論とか意味論の問題です。こういう問題が、スピリチュアルケアな問題だと考えられます。こういう問題について、分からない分からないと言って悩んでしまうことは、不健康なことではないかということを、WHOの中の委員が言い出して大きな波紋を投げかけたのです。その延長線上にDeath Educationや生と死の教育というものも位置づけられるのではないかと思います。
 生と死に関する書物のことを例にとってみますと、いろんな人がいるわけです。生と死の問題を漠然と考えているけれど、自分は一体何に関心があるのだろうかということが大きな問題です。
 
5.若者と老人 −死と向き合う力−
 私は、健康な時には、自分の生と死について考える人は少ないのではないかなと思っておりました。たまたま東洋英和女学院大学の三年生に死生学を教える機会が与えられました。相手は皆20才ぐらいの茶髪で耳にはピアス、腕輪をつけている女の子たちです。彼女たちは生と死には全く関係ないかと初めは思っていました。生と死というのは非常に重いテーマですから、聞きに来る学生はほとんどいないのではないかと思っていました。ところが開講してみると、350人ぐらいの人が来て教室内は立錐の余地もないほどです。それも午前中の1時限ですので9時に始まります。学校は横浜の山の中ですから、野越え山越えで、中には6時起きして来る人もいます。20才になったかならないかぐらいの女の子が、生と死の問題を朝一番の授業に、しかも350人も来るなんていうことは、想像もしなかったことです。これで分かったことは、人間というものは、本質的にですね若いとか年を取っているとかと関係なく、生とか死とか愛とかという問題に深い関心を持っているということでした。若いから非常に純粋だということがあるのかもしれません。だから生とか死について真剣に考えることができるのではないかとも思います。
 社会に出ていってだんだん偉くなっていくにつれ、死と向き合えなくなる。ある県立ガンセンターの総婦長がたまたまガンになった。普段はケアし教育する側の看護婦さんを何百人と従え、その頂点に立って権威を振っていた。その張本人がガンになって、そのガンセンターの病棟に入院したそうです。そうしたら驚くべきことに最も扱いにくい患者になった。気に入らないと看護婦に枕をぶつけたり、点滴を抜去したり、つばを吐いたりと、大変な患者になったというんですね。それを聞いて、何でそんな扱いにくい患者になったのかなと私は思ったんです。人間というものは、健康に恵まれて社会の頂点に立った時に、死を忘れてしまったんじゃないかと考えました。あたかも自分が神様となったかのように、いつのまにか限界をしらないような存在になってしまったのではないか。ところがある日突然どーんと死というものが襲い掛かってくる。そうするとどう対処していいか分からなくなってしまうのではないかと思うんです。
私はこのケースに接して、どんなに力がある人でも、どんなに立派な人でも、普段から生と死の問題−つまり限界性の感覚−に対するまなざしをどこかで持っている必要があるのではないかと思いました。
 先程言いました私の大学の学生さんなんかは、言ってみれば何も持っていない。学生というのは学ぶ生で、地位も権力もお金もない。だから純粋に死と向かい合えると言えないでしょうか。他方定年で退職して、社会的な役割も地位も何もなく、お金も減るばかりだという人は、ある意味では平常心で死に向き合えると思うんですね。ですから何にもない若い人と、既にあったんだけど定年になって何もなくなってしまった人というのは、両極端ですけれども、そういう人は、平常心で死に直面できるんじゃないかと思うんです。ですからまさに若い時と、それから高齢者層といいますかね、そういう時期がどうも生と死というものを考える良い時期なんじゃないかなと私は思います。
 
6.死を通して密度の高い生をおくる
 自分自身の生と死に関心があるような場合で、黒澤明監督の「生きる」という映画があります。この映画を中年以降の人は大体よくご存知だと思うんですが、ある区役所の、下級官吏−多分課長くらいの人が登場します。その人が胃ガンになるわけです。胃ガンになる前は、非常に権威的に振舞っていました。たまたま自動車の通りが激しくて、子供の遊び場がないということで、地域のお母さんがみんなで集まって、公園を作ってくださいと彼のところに陳情に行くわけです。彼は健康だったときは、下から上がってくる書類に盲判を押して、遅れず休まず働かずといった生活で、アフターファイブは酒を飲んで遊んでいたわけです。彼は保身家でしたからそういうお母さんが子供のことを心配して陳情にきても、ああこの仕事は別のセクションの仕事だと言って逃げるわけです。結局たらい回しにされ、うやむやになってことが進まない。そういうお役所の中にどっぷりと浸かっていたお役人が、胃ガンであると告知された。告知されたということは、非常に重要なんですね。胃ガンであると告知をされて彼は今までの人生観ががらっと変わったんです。自分に残された生命というものは、後1年か長くて1年半だと悟るわけです。自分は、今までの人生一体何をやってきたのだと彼は考えます。ここが大切なんですね。死というものをある程度射程に入れることによって、今までの人生というものを検証する力が出てくる。何の問題意識もなくこのままぶらぶら過ごしていたのでは駄目だ。この役人はそう気がついて、1つぐらいは、いいことをやろうと思った。そして自分の面子を全部捨てなりふり構わず、自分から各課に平身低頭してお願いに回った。「なんとか子供のために公園を作ってやってください」と。関連部署に全部根回しをして子供のための遊び場を自分の権限で作るわけです。最後に雪の降る中、その遊び場でブランコに乗ってカチューシャの歌を歌う有名なシーンは忘れられません。いずれにしてもこの映画の思想の中に流れているのは、死というものは、生を逆照射する。そして死は創造的な力を持ち良き生と向かわせるエネルギーを持っているということを黒澤は訴えたかったのでしょう。
 精神科医で有名な文学者の加賀乙彦さんという方がおられます。若い時代に東京拘置所で死刑囚の心理を研究しておられました。その研究によると、死刑囚というのは、精神錯乱状態になってしまう人と、非常に澄んだ気持ちになって、素晴らしい詩を作ったり、手記を残したり、宗教を信じ透徹した心境に導かれる人がいるということです。後者の場合残された時間、非常に密度の高い生を送る。ところが無期懲役囚の場合、いつ死ぬか分からない。終り−つまり死が身近にはないので何にもしないでただ毎日を繰り返す人が多いそうです。このことから分かることは、インパクトがある生をおくるには、人間の限界というものが示されなければならない。締切りが明示されることによって、後の時間というものの価値、或いは時間の質というものが変わってくるのだということです。私はこういうような教育が、今の小学生だとか、中学生だとか、高校生だとか或いは健常者に対してなされるべきであり、これがDeath Educationの本質的な意義の一つだと思っています。
 
7.よりよき死を迎えるために
 今いろいろな延命の技術というものが発達し、いわゆるスパゲティ症候群と呼ばれる、くだ(管)だらけになって生きたくもないのに生かされる人が出てきて問題になっています。ところが医者は死は敗北だと教え込まれるわけです。そうでなければ医者としての役割は達成できない。社会からもその役割というものが期待されている。ともかく生命というものを維持するということが大前提であると我々は教育されてきました。しかし死に向かうにつれて、治療の限界というものが見えてきます。いくら化学療法をやっても放射線療法をやっても、だんだんだんだん衰弱が激しくなってきます。それとは反対に患者さんの精神的ケアの部分が重要な位置を占めてくる。もう治らないのにもかかわらずいろんな医学的手立てをしていく。そういう在り方は正しいのかという問題提起がされてきているんですね。治らないと分かったとき、じゃあ患者さんの意思っていうのはどうなんだということです。最後は患者さんや家族が主役になる。医者はむしろペインコントロールや呼吸のコントロールに徹し最小限の医療にとどめ、後は患者さん中心のケアを行う。最後を自宅で過ごしたいと言われれば、自宅にする。あまり食事制限、行動制限などはしない。治る見込みのある場合は、医者の権威主義というのもある程度認められるでしょうが、人間の命というのは限界のあるものですから、終末に近づくにつれて、だんだん医者のやることは少なくなってくる。その代りに看護婦さんのケアやスピリチュアルな問題というのが重要になってくる。最後は患者さんの意思というものが尊重されなくてはならない。
 
8個人と家族 −生と死をめぐる文化差−
 終末期において患者と家族が対立した場合はどうか。例えばガンの告知の場合、家族は告知してもらっては困ると言い、本人は告知して貰いたいといったように意見が対立した場合どうするか。逆の場合もあります。本人だけが知っていて家族は知らない。本人は、家族が混乱するから言わないでくれ。年老いた父と母がそんなことを知ったらウツ病になるかもしれないから、言わないでくださいと頼まれるケースもあります。日本では医者が死後病理解剖を行う場合、本人の同意ではなくて、家族の同意をとらなければならない。そのため医者は家族とうまくやっておかないと、病理解剖を承認してくれないので、告知をするしないということに関して、家族の意思に従うことになる場合が多いと思うのです。
家族を重視するのか、当事者を大切にするのか、これは文化の違いも関係があると思います。アメリカでは、患者本人の意思が尊重される。家族が主体ではなくて、優先順位は個人なのです。臓器を提供する場合も、日本では家族と本人の同意をとらなければならない。欧米では、本人が同意すれば良いという国がたくさんあります。このように国や文化によって、生と死に関する考え方が違うのだと思います。
 
9.人と人との関係性について
 人間が死に直面したとき、それまでの人と人との関係性の問題がもっともシャープに出てくるということを銘記しておく必要があると思います。
 私が自治医大にいたとき、たまたまいろいろな病棟を回る機会がありました。容体のよくない方の相談を受けたとき、先ず私は、ナースステーションに行って面会名簿を見るんです。皆さんご存知のように、お見舞いに来たときに、大体ナースステーションのところに鉛筆とノートがおいてありまして、何時何分誰々が見舞いに来たと記すようになっています。そのノートを一目見れば、極端に言えばその人の人生全部が分かります。これはどういうことかと言いますと、死ぬ間際の人というのは、裸になるわけです。健康な時は地位や権力があり、お金があります。言ってみればいろんな形での利用価値がある。そういう人に対してはみんながお世辞や追従を言って集まってくるわけです。ところが人間というのは非情なもので、死に近づき利用価値がなくなってくると、利害関係で動いていた人というのは、逃げていきます。また家族の動きを見ていましても、奥さんや子供が全然見舞いに来ないような人がいる。看護婦さんに聞いてみると、その人の人生というのは、女遊びはするは、酒は飲むは、バクチはするは、それでほとんど家に寄りつかなかった。借金ばっかりして、家族を泣かせていた。そういう一生だったということを聞いて、その人が死にかかったとき、なぜ家族が寄りつかなかったか分かりました。正直なものですね。結局その人の全生涯にやったそのつけが、最後の数ヵ月に出てくるわけです。その人の嘘偽りのない真実が出てくる。でも私は看護婦さんによく言うんです。そういう人こそちゃんとケアしてあげてくださいと。みんながお見舞いに来るような人はそれでいいんだ。しかし終末期孤独になった人を、ちゃんとケアしてくださいと私は申し上げています。
 いずれにしても人と人との関係性というものを、死ほど赤裸々に表すものはないと思います。お葬式なんかでも奥さんが亡くなると、たくさん弔問の人が来るというんですね。それは社長は生きているからです。お葬式に行かないと後でなにをされるか分からない。そうした心配が働くのかもしれません。とにかく社長の顔を立てるためにたくさんの人が奥さんの葬儀に出る。しかし社長さんが死んだ場合はあまり人が来ない。その人の人生が自分にとって感動的であった場合にのみ、忙しくても行きたくなる。そのような人が亡くなったときは、ご利益的な考え方じゃなくて、ともかくそこへ行って弔ってあげようという気持ちになるわけです。だから私は死というものは、人間の関係性の絆が強いか弱いかというものを測定するリトマス試験紙のようなものだと思っております。文学のテーマというのは、死と愛だと言われます。これは当然のことでして、この死というものを通して、人間の関係性というものを深く追求するということが出てくるんですね。ですからそれは、本当の人間教育といいますか、人格教育というものの教材になる。自分自身の教材にもなるし、他人の教材にもなると思います。
 
10.超越的存在との関係性
 ガダマーという哲学者は、「自己をはるかに凌駕する偉大な思想によって、自己の狭小な考え方が打ち砕かれて、自己否定をバネとして、新しい自己を作り上げてゆく。そういう自己超越の運動こそが教養である。」と言っています。本当の教養というのは、自己超越というものがないといけない。いけないというのは、おかしいですが、そういう超越的な契機というものが必要なのだということを言っています。ですから生と死の問題を考える場合は、自己との対決との問題、他者との問題それから超越的存在との関係、この三つの方向性というものが非常に重要なのだということが言われております。
 
 話しているうちに時間も残り少なくなってまいりました。最後にご質問をお受けしたいと思います。
 私が教えていただきたいというか、お聞きしたいのは、私の直属の上司で自治医科大学でいろいろお世話になった中野先生が来られていますので、ご紹介がてら一言よろしくお願いします。
(質問)中野先生
 私考えているんですけれどもね、だんだん年を取り精神機能が衰えてきて、物を考えるのも億劫になり、体も痛みがある。そういう状況で、人間ってものはどうなっていくものでしょうか。その辺のところが、私ちょっと分からないんでございますが。
(回答)平山先生
 中野先生の話をお聞きしていて、トルストイの「イワン・イリッチの死」という小説を思い出しました。イワン・イリッチはお役人で、最後までいろいろな痛みに耐え、身近な人との人間的な交流を大切にして死んでいった人物です。
 私は死にゆく人には2種類あると思うのです。だんだん具合が悪くなってくると、早く麻薬をたっぷり使って楽にしてほしいという人がいます。麻薬の量が増えれば増えるほどだんだん副作用のため、眠気がでてくる。意識が朦朧としてくる。それでも痛みが止まらない場合は、抗精神薬を投与する。そうするともう意識がなくなってしまう。つまり安楽死に近い状態になる。このような処置を望む患者もいます。
 他方イワン・イリッチのように、自分は多少痛みを伴っても生きていたいのだ。意識がある間中は、きちんと人間としての尊厳を保って生きていたいんだと考える人もいるわけです。そういう人は、愛する人がいてその人と別れるのは辛いというケースです。
 先生のおっしゃるように、人間は考える力だとか理性の力だとかは、体全体の機能が落ちてきますと、やはりだんだん落ちてくると思います。それはもう致し方がないことですけれども、人間を最後までこの世にとどまらせるものは、愛する人が傍らにいるかいないかということ、これが大きな分かれ目になるんじゃないかなと思っております。
 
(質問)一般
 臓器移植をされた方が、非常に人格が変わるといわれて問題になっているようですけれど、それはどういうことからそういう具合になるんでしょうか。
(回答)平山先生
 今日本は僅か十数例(この1年)ですけれども、アメリカでは、心臓移植だけに限っても数千例というケースがあって、移植を受けた人に関するいろいろなケーススタディが進んでいます。他人の心臓を別の人に移植するということは、生体の拒否反応というものがあるだけでなく、心理的にも違和感があるといわれています。もちろんそれを有難くいただいて、非常に喜んでいるケースもございますが、中にはそういうものがあるんじゃないかということが1つ。
 それから犠牲を払って移植をしても、うまくいっている場合は、いいんですけれど、移植後病状が悪くなるケースもあるんですね。そういう場合は臓器を提供した人も貰った人も、罪責感が出てくる。その罪責感の処理をどうするかという問題があります。
 また、近親者間の臓器移植の場合、例えばお母さんから子どもに腎臓を移植した場合、ある意味においては、自分は一生優等生でなければならないという、ものすごいプレッシャーが起こってくる場合もあります。普通は、ドナー(提供者)とレシピエント(受けた人)との間には「匿名の原則」というのがあって、絶対に分からないようになっております。しかしもしそれが分かった場合に、贈与の愛として差し上げた人が、それを大切に使って有意義な生を送っているのならばいいですけれど、いいかげんな生き方をしていることが分かったら、ドナーやその遺族はどう思うでしょうか。私は、臓器移植について決して反対論者ではありません。うまくいけばそれは大変価値のあることだと思います。しかしその陰にいろいろ複雑な問題があるんだということを、我々は知っておく必要があるのではないかと思います。
(質問)継続
 すいません。そういう意味ではないんです。例えばですね、いまおっしゃいましたように、移植を受けた方は、移植をされた方のことは全然知らない。ところが受けた方が、心理的とか、精神的にいままでとは全く違ったような考え方になってしまった。そしてその方が非常に苦労されて、ドナーの遺族の方を尋ねて歩いたわけなんですね。移植を受けた方はアメリカなんですけども、ドナーのご遺族の方は、ヨーロッパの方なんです。移植を受けた方は、ヨーロッパまで出かけて行ってご遺族を見つけ出して、いろいろその方の話を聞いてみると、ご遺族の方の言うには、あなたがいま苦しんでいることは、ドナーの性格とそっくりおんなじなんだと、そう言われたというんです。
(回答)平山先生
 アメリカなんかでは、ドナーのご遺族の方とレシピエント(受けた方)の交流をする機会というのが最近設けられたと聞いています。けれども、今まで想像もしなかったような生命倫理上の問題が、起こってくる可能性はあると思います。
(質問)継続
 それがあり得るということですましてしまうのか、それはなぜそういうことがあり得るのかということですね、この点について、もっと研究する必要があると思います。
(回答)平山先生
 日本では厚生労働省の中に脳死移植に関する検証会議というのがあって、ドナーのご遺族の心情調査というのをやっています。今後もこの方面の検証を通して研究を深めてゆくべきだと考えます。
(質問者)
 どうも有難うございました。
                 (終了)
                                                     文責・研修活動委員会 中村 正