盛岡ユネスコ協会副会長 高橋 千賀子

序 章 ネパール〜遙かなる国
手許に一冊の手作り小冊子がある。
「風と笑顔の光る国・識字教室をたずねて」(2001,3,22〜3,29)のタイトル。
盛岡ユ協のネパールスタディツアーの報告書である。
あれから早いもので8年の歳月が流れた。盛岡ユ協は長い間ネパールの識字教育に支援活動を続け、平成13年には盛岡ユ協会員有志13名で念願のネパールスタディツアーを敢行した。あの夢と現実が慌ただしく、ない交ぜになった一週間を思い返すと未だに熱いものが込み上げてくる。このツアーが我々のその後の活動の大きなターニングポイントになったのだなあと小冊子を手に今更に感慨深いものがある。
盛岡ユ協は今年6月で創立60周年、人間で言えば還暦という節目を迎えます。これを機に、8年前のツアーなどを思い出しつつ、来し方を振り返り再考することが、現在から未来へ、次なるスタディツアー実現と当協会の活動の方向性などを探る“よすが”になるのでは、との思いからこの稿を起こすこととした。
まず、我が協会は何故ネパールを支援先に選んだのか?

平成13年訪問時 コイララさんを囲んで
私のユネスコ入会は昭和58年(1983年) 「第2回狂言を楽しむ会」公演のお手伝いがきっかけだったが、この質問にはっきり答えることが出来ない。
全ての経緯をご存じのはずの前会長・遠山美知先生はじめユネスコの礎を築いた先輩方ほとんどの皆さんが黄泉に旅立たれた。然るべき時にきちんと伺っておくべきだったと今更ながらに後悔先に立たず!
推測の域を出ない部分もあるが、資料を基に検証すると昭和60年(1985)当時開運橋たもとにあったミドリヤ盛岡店にて開催されたファッションバザールの益金がネパールに送られたのが最初の支援金だった。
当時の日ユ協連からのアドバイスがあってのことと思われる。
このミドリヤ盛岡店のバザールというのは、当時の西武グループの総帥・堤清二氏と遠山美知先生が友人というご縁から、年に一回ミドリヤ店内でオークション形式も取り入れたチャリティバザールが開催された。
店長さんが店内のめぼしい品々を、例えば毛皮のコート、ワニ革のバッグや高級衣料品や雑貨などをひょいひょいと集めてきて、即その場でオークション、当時話題に上がったチャリティの催しで大きな金額が寄せられた。
この後もミドリヤバザールの益金はマハグティやバングラディシュなど各地域に送られ、ミドリヤ盛岡店閉店まで十数年続いたのだった。
話が少し横道に逸れたが、その後、昭和63年(1988)、平成2年(1990)、平成5年(1993)とネパールの指導的立場にいらしたネムクル氏やムルミ氏の来盛があり、その間の平成3年には当時の遠山会長以下7名の女性会員がネパールを訪問し、このあたりからの交流がネパールという国を私たち会員に印象づけたのだった。
ネムクル氏は若い官僚タイプの理知的なイケメンさんで、話も理路整然と英語も上手だった。
ムルミ氏は小柄な人当たりの良いおじさんで、菜食主義という指令に接待係の私は思案投げ首、しかしご飯とお味噌汁が大好き、それさえあればということでホッとしたこと、博物館をご案内した折、展示物の古い農機具を御覧になって「これらはいずれも今我が国で使われている道具ばかり、珍しくも何ともない」と苦笑い、ネパール語訛りの英語が分かりにくくて往生したことなど懐かしい。
そして平成7年(1995)ネパールの識字教育リーダーのインディラ・コイララさんという女性の来盛がきっかけで、彼女がリーダーを勤める、働く農村女性達の識字教室「IIDS」に支援先が絞られ、今日に至っている。
コイララさん来盛時は、生憎、遠山先生と私はロシア・リァザン州建都900年祭に招かれ、盛岡を留守にしており、お目にかかれなかったが、留守部隊の皆さんが奮起し頑張って下さって、市内小中学校などでのコイララさんの講演会や交流会が大盛況で、盛岡市民に大いにアピールしたことなどが新聞記事にも残っている。
コイララさんとは平成13年のツアーの折、ネパールで再会、旧交を温めた。彼女は長い間識字教育活動に携わり、しっかりと自分の考えを持ち、細やかな情報分析をまじえての「ネパールの厳しい現状」説明は説得力に溢れていた。
日本から特に盛岡からの支援に深い謝意を伝えていらしたことも印象深く、彼女の夢が一日も早く実現するよう祈らずにはいられなかった。
ネムクル氏、ムルミ氏の来訪は表敬訪問的な意味合いだったが、コイララ氏の来盛あたりからネパールという国が会員一人一人の意識にはっきりとインプットされ、“遙かなる国”から“気になる国”へと変化していったように思う。
途中、東京・日ユ協連からの他の国への支援先の変更、見直しは?などの問い合わせもあったが、我々の答えはいつも“NO!”
ネパールという国にこだわり続けた20数年といえよう。
次回は、なぜネパールに行きたかったか、行かねばならなかったか、などに触れてみたいと思います。
第二章 ネパール ってどんな国
このところ新聞を2面か3面から見る日が続いています。
ネパール国の政情不安が気に掛かるのです。立憲君主制から連邦共和制にやっと移行し、これから本格的に国の体制作りなるかと期待していた矢先の紛争再燃。民族間の長い間の殺戮・憎悪・不信は一朝一石には消えないものなのでしょうか。
無力感に陥りつつも、ネパール国民の皆さんの安否が気がかりです。そして我々の切なる願い、次なるネパールスタディツアーの夢叶う日がまた遠のいたかと会員一同に落胆ムードが漂い始めております。
さて、前回は当協会とネパールとの関わりの歴史を思い出すまま書いてみましたが、今回はなぜネパールに行きたかったか、行かねばならなかったかに触れてみたいと思います。
何故に? 理由は至極シンプルです。
日本の子供達に、真実を自分達の目で見、耳で聞き、確かなことを自分の言葉で伝えたいと思ったのです。
毎年3月、学年末の学校現場はフル回転の忙しい時期ですが、我々も少し忙しくなります。というのは、毎年ボランティア活動の成果や結果をユネスコに寄せて下さった小・中・高・各学校に、会長以下理事などが手分けをして感謝状伝達のため訪問しております。
この場での子供達や生徒さん達との触れ合いが私の大きな楽しみで、沢山のパワーと元気をお土産に頂いてまいります。
平成20年度も20数校の学校や一般市民から、沢山の善意や思いやりの心が集まり、ネパールの支援活動に生かすことが出来ました。
私自身、正直なところ、ネパールを身近な国に感じつつも「そのうち誰かが行けたらいいなあ!」程度の思いで過ぎてきました。
しかし協力校が年々増え、沢山の学校を訪問し、小中校生との交流の中で、彼らの純粋で温かく、パワフルな善意に向き合ううちに、我々は果たしてこのままでいいのだろうか?という疑問にさいなまれ始めたのです。
我々は募金活動の結果をネパールに送り届ける、一方通行の集金マシーンに甘んじていて良いのだろうか。支援金品を託す日本ユネスコ協会連盟からはお礼状や領収書など事務的な書類は送られてくるが、しかしネパールの現状や生の声が実感として伝わってこない。
まず、ネパールってどんな国? から始まって、盛岡からの沢山の真心と善意が一体どう生かされているのだろう? 果たして支援金の効果は上がっているのだろうか? またネパールの方々の思いはどうなのだろう、直接お会いして交流することが何よりの国際理解・国際親善になるのでは? などなど・・・
これは自分達の目と耳と肌でしっかりと現地の様子、真実の姿を捉え、自分達の心で感じたことを、日本の子供達や協力下さった皆さんに発信し、伝えなければ! との思い止みがたく、スタディーツアー・ネパール行きのチャンスを狙って雌伏?年、平成11年の盛ュ協50周年記念事業が一段落した後の平成13年 3月、ついに念願のスタディーツアーが敢行されたのでした。
次回はいよいよネパールで見たこと、学んだこと、感じたことなどをレポートします。


学校への感謝状贈呈風景と書損じハガキの山

第三章 ネパールへ 「ナマステ!」
さあ、いよいよネパール行き決定。スタディツアーへの参加の顔ぶれも出揃った。しかしそこで早々に問題が一つ。参加者全員がシニアクラスで困る訳ではないが、次代を担うヤングクラスが何人か参加できないだろうか?との提案が出された。
ネパールでの国際交流を老いも若きも共に体験出来たらとの願いだが、いざとなると難しい。そこで打開策として、若人を指導する先生に的を絞ってみた。
各高校に働きかけた結果、二つの高校の若き指導者が参加下さることになり我らがツアーにヤングパワーが加わって万全の構えに仕上がった。
スタディーツアー団員13名にユネスコ連盟から派遣されたコンダクター兼通訳の荒井千香子さんを加え、14名が運命共同体として編成された。
準備期間の1年間は団員が手分けをしてのお土産の調達、ネパールに関する情報を収集しながらの勉強会、当協会の活動状況の発表準備、ネパールでの交流方法や手段の検討、各関係機関への連絡、挨拶など忙しくも充実の日々だったことが懐かしく甦る。
街に屯するネパールの男性
平成13年3月22日盛岡を発ち、一行14名はバンコク経由でついにカトマンズ・トリブバァン空港に到着、ネパールへ第一歩を踏み出した。
初日と二日目はまずネパール理解のためのカトマンズ観光とマウンテンフライト、夜はネパールの識字教育拠点になっているノンフォーマル教育リソースセンター職員との交流会などが行程に組まれていた。
3月とも思えないカトマンズの初夏のような強い日差しの中、歴史的な建造物がそのままに残されているパタン地区の観光からスタートした。
13世紀頃に台頭したマッラ王朝から始まり、幾多の変遷を経ながらも、ヒンズー教や仏教に裏打ちされた独特の文化と古い家並み、王宮、寺院などが脈々と今に伝えられており、その素晴らしさに歓声が上がった。
しかし雑踏の中を進むうちに困惑の場面も・・・
街中に舞っているほこりや異臭、散乱するゴミの山、我がもの顔に路地をうろつく野良犬ならぬ野良牛!(牛は神聖な生き物として大切に保護されているとのこと)、観光客目当てに寄ってくる物売りの子供達と物乞いの手!また宮殿の周りや店先などに所在なげに座っていたり、ぶらぶらしている男性が多いことも奇異に感じられた。ネパールの殿方にはせっせと働くという意識が薄いのかもしれない。これらはネパールの慣習であり、文化なのであろうが、色々の違いを認めて受容する難しさも痛感した初日であった。
二日目は一行の楽しみの一つ、エベレスト見学のマウンテンフライト。ブッダ空港には20名定員の吹けば飛ぶようなプロペラ機が待機していた。
タラップに足をかけたとたんに、天候待ちということでしばし時間調整。こんなおもちゃみたいな飛行機で大丈夫だろうか?という不安を吹き飛ばそうと「明日の識字教室の皆さんに披露する盛岡音頭を稽古しよう」と衆議一決、タラップの下での盛岡音頭が空港中の注目を浴び、歌い手も踊り手もますますハッスル、思いがけない国際交流の場が展開した。
ブッダ空港にて
憧れのエベレストは白雲をバックに孤高の佇まいで神々しいばかりに輝いて我々を迎えてくれた。小さな窓からの世界最高峰との対面はひたすら感動の一幕ではあった。この白銀に彩られたヒマラヤ山脈は旅人にとっては大きな魅力には違いないが、険しい山肌にしがみつくように暮らす人々に思いを馳せると複雑な気持ちも交錯し、プロペラ機と共に思いも揺れた。
山また山の厳しい地形、数ヶ月も続く雨期という気象条件、カースト制度の足かせ、その上政治の恩恵が行き届いているようには見えず、貧困の悪循環を目の当たりにして、我々一行はたじろぎ、考えさせられ、しばし寡黙の人になった。
長年夢にみたネパール!しっかり受け継がれている歴史や伝統そして文化に感服し、野良牛に驚き、ほんの一部を垣間見たに過ぎないのだが、次は何が飛び出してくる事やら、びっくり箱のようなスタディーツアーはこうしてスタートいたしました。
三日目、四日目がいよいよスタディーツアーのハイライト!識字教室の訪問や教室で学ぶ女性や子供たちとの感動の交流があります。
ではハイライトは次回に!
第四章 ラリーグラス(ネパールの国花)のように
ネパール滞在三日目、ネパールレポートもいよいよ佳境に入ることになろうか。三日目は識字教室の拠点になっているノンフォーマル教育リソースセンターを訪問、まず手始めにネパールの識字教育の現状を知るために我々の学びの場が設けられていた。
ユネスコから支援を受け、ネパール国内で活動している五団体のリーダーやメンバーが準備万端整えて我々を待っていた。
どの団体も自分達の団体の成り立ちや特長、そして活動の経過や実情、目指す目標などを写真やスライドなどで具体的に分かりやすく説明してくれた。
以前、盛岡を訪れてくださったインディラ・コイララさんもIIDSの代表として、その後の状況を話してくださり、それぞれのリーダーの方の識字教育に対する真摯な姿勢と熱い思いが痛いほどに伝わってきた。
数ある情報の中で特に私の印象に残ったことは、識字教育イコール字の読み書きという図式以前の課題だった。つまり教育を受けるチャンスを逸した女性達にいかにして教室に足を運んでもらい、学ぶことに向き合ってもらうか、旧態依然の封建的な考えからの意識改革にかなりの時間とエネルギーを必要とするとのこと、意識の変化を促すことが識字運動の原点、使命であるということに深く頷く私がいた。
幸いにもこの変化が点から線に、線から面に国内全体に浸透してきて、識字運動20年、多くの人の願いと祈りが実を結ぼうとしている。日本からの支援が着実に生かされつつある事実を確認できた瞬間だった。
次に盛ユ協からネパールの皆様に我々の活動状況を説明する時間を頂いた。
日本から、盛岡からネパールに寄せる善意や支援金がどのような活動から生まれ、どんな人たちが関わっているのか、ありのままの姿を伝え、知っていただくことも我々に科せられた役目かと考え、盛ユ協の一年間の活動状況と子供たちや生徒たちの募金活動、書きそんじ葉書回収の様子、感謝状伝達シーンなどを英文解説を添えてアルバムにまとめ、それを見ていただきながら話を進めた。皆さんは身を乗り出すようにして耳を傾け、活発な質問も出て、アルバムは終始引っ張りだこ、彼らも日本に深い関心を寄せ、情報収集に努めていると感じた。
その後、盛岡から各団体へのお土産や盛ユ協50周年記念特別支援金の贈呈など一連のセレモニーがあり、情報交換しながらの和やかな交流の場が広がった。
夕方になるのを待ち、いよいよ寺子屋訪問、成人の識字教室は夜間の教室なのだ。カトマンズ近郊のコカナ村に移動、部落の長老はじめ沢山の老若男女から野の花で作った首飾りの歓迎を受け、寺子屋教室に案内された。
小さな古い農家の一間、8畳位の広さに机も椅子も無く、裸電球の下にあるのは黒板のみ、若い女性が先生で、生徒は十代から中年まで20人ほどがぎゅうぎゅう詰めで座っていた。
あまりに窮屈そうな教室に我々一行は一瞬たじろいだが、挨拶を交わし、通訳を介してお話ししたり、持参した色紙を使って、膝の上の折り紙細工に四苦八苦しているうちに女性たちに笑みがこぼれはじめた。
次に案内されたのはここから暗い部落の中を歩いて10分ほど、こちらの教室はそれなりの広さがあり、明るく、先生は二十代の男性で生徒は30人ほどの成人女性だった。そのうちの数人が立って順次テキストを音読。一様に学ぶ嬉しさ、楽しさを漲らせ、誇らしげに胸を張り、その笑顔の美しさについ見とれてしまった。ここで一つ大きな発見!女性たちのテキストを覗いて気がついた。
学んでいるネワール語が自分達の話し言葉と限らないということだ。
寺子屋の生徒達は我々が仏語や独語などの外国語を学ぶことと同じ!という事実にショックを受けた。

音読する女性 どうすればうまく折れるの
翌日の四日目はカトマンズからマイクロバスで1時間ほど走り、途中で小型のジープに乗り換えグンドゥ村に。ジャガイモの花や菜の花の咲き乱れる段々畑や荒野の山道を土ほこりにまみれつつ道無き道を進んだ。
そしてまたここで驚いたことは、この道の一部は寺小屋に通う女性達が自分達の通学のために切り開いて作ったとか、またもや感動の一幕!
グンドゥ村は山の尾根にすがるように位置していた。
盛ュ協の支援で建てられたブロック造り、8畳2間くらいの教室でやはりあるのは黒板のみ。しかし建物の裏手に案内され、付いていくと案内人は誇らしげに「これはトイレです」とのこと、トイレを別棟に用意する教室はまだ少ないとのことで、これは嬉しい設備だろうと納得した。
村自慢の屋外トイレ
遠来の客をもてなすためだろう、真紅の民族衣装で着飾った女性達は、あたかもネパール国花の真っ赤な石楠花・大輪のラリーグラスが咲き乱れているようで眩いほどだった。彼女達から花の首飾りをかけてもらい、さらにおでこには魔除けのティカ(植物性の赤色の汁)をつけてもらえば、もう皆ネパールの人。ここでも賑やかに交流の輪が広がった。狭い屋外のスペースだがぞくぞく集まってきた住民や子供達はかなりの人数、部落総出で歌い、踊り、太鼓の音が遠くの山々まで鳴り響いた。
ティカをつけて誰もがネパールの人
やがて来る別れの時。手をとり合い目を見つめ、別れと感謝と激励の言葉をかける。言葉は通じなくとも思いは充分通じる。名残りを惜しみながら一人ひとり握手をし、彼らの感謝の心と固い決意を身体全体で受け止めながら車中の人となった。
真っ暗な揺れる車中はしばし静寂、皆深い感動の余韻の中だった。
誰かがポツンと言った「やはり来て良かった!」
全員深く頷くばかり、識字教室の皆様の美しい笑顔が、車窓から見える満天の星の煌めきと同じようによりいっそう輝くよう祈らずにはいられなかった。
沢山のびっくり箱が一時にはじけたようなこの数日間、多くの感動やカルチャーショックを胸に、この貴重な体験をこれからどう生かすか、次なる課題をお土産にネパールに別れを告げた。

花で歓迎 IIDSの女性たち
第五章 ネパールへ 〜 ありがとう

別れを惜しんで記念写真
メンバー全員が予定通り無事帰国した。
しかし盛岡を出発した一週間前と違ったところがあった。身体的な疲労がチラホラ見え隠れする中にも全員の「目の色」が明らかに違った。
目の色というより輝きかもしれない。
沢山の感動というスパイス効果が最も大きな要因だろうか。感動に加えて勇気、元気、パワーというおまけも付いてきたようだ。
数日間の滞在でネパール国の全容を把握できるはずもなく、日の当たらない影の部分、見逃した場面などもあったことと思うが、それでも感じること、考えさせられることも数多く、まさにスタディーツアーの真髄を味わい尽くした数日間だった。
ネパールの抱える諸問題、様々な民族、宗教、言語が複雑に絡み合い、古くからの慣習やカースト制などに縛られつつも、新しい意識改革を浸透させ、そこから自立の道を探り、貧困の悪循環から抜け出す・というストーリーは我々が想像していた以上に困難を極め、膨大な時間とエネルギー、そして資金も必要とすることを肌で感じた。
しかし今まさにネパールの皆さんはそのストーリーの入り口に立ち、そして歩き始めていた。
両手に「夢」と「希望」を握りしめ、目標をしっかりと見据えて・・
識字教室の女性達の目に宿る強い光と溌剌とした美しい笑顔の理由がここにあった。
一方、我々日本人は?といえば。戦後と呼ばれる苦しい時を乗り越えて60数年、その間平和で自由で豊かな物質文明に埋没してしまったかに思えるのだ。
夢も希望もどこかに置き忘れ、無力感漂う流れの中に生きてきた故のひずみがここに来て色々生じてきているのではないだろうか。
人間生きるために何が必要か、何が大切か!我々日本人が失ったもの、忘れかけたことなどを彼女達は自然体で教示してくれた。
深い感動に包まれると同時に、我々の中にもある意識改革が起きたのだ。盛岡駅に降り立った時の一人ひとりの目の輝きがそれを物語っていた。
国際支援も国際交流も一方通行ではなく対面通行、「お互い様!」が最も相応しい言葉だと思い知らされた旅であった。

笑顔が光る 風が光る
帰国後まず我々がなすべき事は、もっとネパールの皆さんのお役に立ちたいとの思い止みがたく、その方策を探ることだった。
「目の色」が変わった集団がついに本気?になった。
ネパール滞在中から徐々に具体化していったアイディアの一つにバザーの見直しがあった。日を追う毎にメンバーの中のショッピング魔のテンションが上がりっぱなしになっていたのだが、それはネパール特産品の紅茶、銀細工、紙製品、パシュミナストール、民族衣装などの素晴らしさにあった。これは日本で人気を呼ぶ商品になりうるのでは?そうなればネパールという国をアピールしながらもっと沢山の協力と支援が可能になる、との目論見だ。
それまでは他の団体との連合で開催してきたバザーを変更し、ユネスコ独自のネパールカラーで実施との計画が3ヶ月後の6月に、即、実行された。
盛ユ協揚げての熱い思いがバザーを大成功に導き、恒例の看板行事となったユネスコチャリティバザーはネパールの現状を沢山の人たちに知ってもらう場になり、さらに会員同志の絆を深め、連帯感、充実感、達成感に満たされる場ともなった。
また、自分達の目と耳と肌で感じたネパールの印象を協力下さる方々に、自分達の言葉でしっかり伝えられることも幸せだった。
その結果、さらに小中学校の協力校も増え、支援の輪も大きく広がった。
スタディーツアーが盛ユ協のターニングポイントになった所以である。
次なる盛ユ協の目標は次代を担う若い方達と共に行くスタディーツアーの実現である。ネパールの政情不安が収まらず未だに実行に移せない口惜しさ、もどかしさもあるが、ここは現地で活動を推進しているリーダーの方々、そして一歩ずつ歩みを進める識字教室の皆さんに熱いエールを送りながら、我々が出来ることを地道に積み重ねつつ、機が熟すその時を待とう。
夢と希望をそれぞれの胸にしっかりとあたためながら・・・
ネパールの皆さんありがとう! またお会いいたしましょう
(長い間、拙い文のレポートにお付き合いいただき感謝申し上げます)
高橋 千賀子