盛岡ユネスコ協会副会長 太田原 弘


                             
第一回 再考『"茶の間"にユネスコを!』
 世界のどこかの地域で朝も昼も夜も銃声が響き、
 弾薬がさく裂、爆音がやまない。

 兵士の犠牲にその都度心を痛め、犠牲が民間人や乳幼児にまで及ぶ現実に、私たちの心は一層病み続ける昨今。住む家の無い人や安眠どころか、うたた寝すらできない人々を思うと、居たたまれない思いが飽和状態になる。
銃弾は使わずとも、民意反映等の内紛まで視野に入れると複雑さは更に拡大。
 戦争のない地球世界の実現を約束し合って国際連合が発足、その傘下でユネスコが誕生し60有余年の間、私たち日本は"戦争の無い平和な国"を持続している。
疑いなく"世界に誇る日本!"と多くの人が指摘のとおり。同感!

 さて、私の友人(東京在住)にタイ国が大好きな人がいる。彼は、時にひと月を越す滞在を含み数え切れないほどタイを訪れることを生きがいとし、自らが生きる誇りともしていた。
彼には、タイ国内のある市の一等地に一軒の持ち家があるだけに、タイへの並々ならない愛着心が殊のほか強い。
 タイは「政情が安定している」「物価が安い」「国民の心が愛しい」「人種の違いを意識しない・させない人々が殆ど」「いつ訪ねても友好的な人々ばかりで、対日感情がとてもいいので、心が和む」・・・まだまだタイへの思いと褒め言葉が続くが、ここでは割愛。

 ところが、ご案内のとおりこのタイに大異変(大対立)が起きた。最近のことで昨日今日のマスコミでも連日大きく取り上げているので解説は省略。
 部族問題や経済事情等時期的には前後し、その要因も異なるが、新疆ウイグル自治区、アフガニスタン、イラン、そしてまさかのギリシャにも起こった暴動・内紛。いかに驚いても、いかに嘆いても極限を知らない現実が次々と展開・・・平和とは人々の心の融和こそが基本のはずなのに!
 友人は、タイの人々の胸の内をよく知っているだけに、一層複雑な思いで不安と不満と同情の心から開放されない日々を過ごしている。
雑談風に言った話の中で、タイの、特にも市街地の人たちは朝ごはんを作る習慣を持たない。朝食の為の台所が無く、いつも市場の屋台で豊富でヘルシーで驚くほど安い食事にあやかっているのだが、そんな食生活はどうなっていることやら?
 特に知人友人を招く際にはお酒を欠かさ(せ)ない人々が圧倒的多数なのに、そんな生活はどうなっていることやら?と目を伏せる。
 自らの馳せる気持ちを抑え、当面はタイ訪問を諦めながら、複雑な思いで"政情の安定"と"民心の落ち着き"を心待ちしている。
 視点を変えてみると、この友人と同じような思いが、対象国を変えて、私たち盛岡ユネスコ協会にもある。会員はじめ事情を知っている人はどなたでもピンとくる筈の、私たち盛岡ユ協主催「第3回ネパール訪問」を企画してから早くも3年。私たちの期待に反し、ネパールの政情不安の浮き沈みがかなり大きく、訪問延期が続いている。
 次に起こる世界の波乱は何処?の推論は邪推かも知れない。しかし、アメリカに端を発したリーマンショック世界同時大不況や、ギリシャにみられた株価のユーロ圏への拡大可能性と世界への波及の可能性を含む波紋(当原稿作成時点)からすれば、日本だって安閑としておられない。
 経済の動向や株価の浮き沈み等の操作に直接に関わることに限界がある私達としては、先ず、自らの足元を見つめ直さなければならない。その根幹に民間ユネスコ活動があることに誰しも異論をはさまないであろう。

 これまで述べたようなことに触れることが、世界の平和やユネスコ活動に関わる会話や議論の前提とは言わない。要は、話材が何であろうと、世界の平和に関わる基本が"私たちの足元にある"ことを、折に触れて会員以外の方々に熱っぽく説きたい。
 私たちの日常の生活、即ち「人の心と心の繋がりを大事にし合うユネスコ活動」をもっともっと周囲の方々に力説したい。たとえ"分かってます!"と、ことばを返されても、ねばり強く語りたい!
 そこで、私たちがかつて頻繁に語り合っていた「茶の間にユネスコを!」のキャッチフレーズを、改めて、新たな気持ちで取り上げ吟味し合いたい。
 つい先ごろのあるパーティーで、会員勧誘のつもりでこのフレーズを話題にしたところ、「"茶の間"という用語は今や死語に近いことばとなっている。あなたが言いたい意味はわかるが、キャッチフレーズの"茶の間"を"リビング"に変えるべきではないか、そのほうが今の若者から受けがいいよ」と、"日本語の使い方"とか"若者ことばの変わり様"へと話材が移ってしまい、「お誘い」から外れてしまった会話に苦笑。実は、彼の大学時代の専攻が日本語学だったことを知って、二度、苦笑。
 また、私たち盛岡ユ協では、かなりの吟味を重ねたパンフレット(入会申込書含)を持っている。時折り改定を意識しながらも、結構、受けがいいとの判断から活用し続けている。「心の中に平和の砦を!」を築き合うためにも、このパンフレットの活用と、併せて盛岡ユ協ホームページの活用についても、今一度、大いなる促進を呼びかけ合いたい。
 「茶の間」か「リビング」かの議論は後にまわしても、私達は今後とも内外での日常会話等で標題の意味を積極的に訴え合いたい。
用語は何であれ、"心身共にユネスカンたる取り組みを!"の思いひとしおのこの頃である。


第二回 " より良き国際人 "である前に" より良き日本人 "に
 私はこれまでに多くの10代の若者と接して来た。現職時代に思いを馳せると、放課後の時間帯に、うつろな眼差しで廊下の掲示板に視線を送っている生徒は、おおかた俗称「帰宅部」「ルンペン部」のヤカラ。その子たちとの会話が結構楽しくもあった。中には「○○部に入っています」の答えもあったが、そんな折り私の脳裏には、大方の文化部系の場合には、ユネスコとダブっても活動して行けるとの思いから"二枚看板""三枚看板"の話へと繋ぐ。
 つまり、「複数の部に所属することが現実的に可能なこと、3年間の高校生活における部活動の位置づけと意義」、そして「残された高校生活をどのように活気づける心算か?」と、ヒントを与えながら「高校生活のあり方」の再考を促す。言うまでもなく、生徒との会話は常に楽しいひと時であった。
 やがて、国際理解そしてユネスコへと話が進むと「ユネスコをやっていれば海外に行けるの?」の問いが必ず?返って来る。
最近、現職の教員との話によると、このやり取りのパターン(国際のネーミングを、即海外に結びつける期待感)は今も全く同じとのこと。私は「もちろん海外に行くチャンスは、ほかの人と比べれば多くはなるよ」と言いながら、当時、日本ユネスコ協会が年1回実施していた"中高生の海外派遣事業"にさらりと触れる。
 「なぜ、サラリとなの?」の質問を受けそうだが、私はいつも、「海外に行けるならユネスコに関わりたい」の考え方に否定的な立場で教育に携わって来た。私はいつも、「 より良き国際人であるために、先ずはより良き日本人であろう!」を主張し続けた。
 教え子達も良く理解してくれたと思っている。

 さて、近年の実話で、岩手県内のあるお寺のお嬢さんの話に触れてみたい。
彼女は殊のほか、留学そして海外での生活に大きな夢を描きながら10歳代を過ごした。やがて、大学生活の後半に留学の機会が得られ、第一歩の夢が叶う。その後アメリカで仕事を探しながら、とりあえず2年間を目安とする長期滞在に移行。
ところが彼女は、半年余りで帰国を決心した。

 なぜ?
 彼女は、ある地方都市に滞在していたが、先ずは、彼女の実家がお寺なのに、日本の寺や仏教の質問を受けても、すんなりと答えられない自分に気付いた。

 また、" 日本は小さい国なのに、なぜ、経済大国なの?"とか、日本の風俗習慣やお茶や生け花のこと、時に日本特有の"ワビ""サビ"について聞かれると、いつも、あいまいな答えになってしまう自分に気づき、苛立ち始める。加えて欧米の人々は、"あいまいな答え"を嫌い、常にイエス・ノーをはっきりさせたい民族。異国の地で友人知人と交わす日常会話で必然的に頻発する" 曖昧な応答 "は自分自身への" じれったさ "をつのらせる。日本人である自分が、日本のことについて殊のほか吟味していなかった自分(質問されても即答に躊躇など)に気付き、時間の経過と共に" 異国の地で生活を続ける"ことへの疑問が日ごとに深まる。悩みぬいた末、自分を磨き直してからの再訪の道を選び、思い半ばにして帰国を決意した。

 彼女はいま、親でもある住職に弟子入りをし、お寺の修業を重ねながら、"日本と日本人"について、日夜学び続けている。茶華道の世界にも入門した由。
海外に夢を描き、海外生活に憧れることは大いに結構なことで決して否定はしない。
しかし、前述の「より良き国際人である前に、より良き日本人でありたい」のテーゼに、このお嬢さんが立派に対応しているものと思えてならない。このお嬢さんこそが、標題への道をまっしぐらに歩んでいるのではなかろうか。
 彼女の生き方には" ユネスカンの基礎基本 "が着実に身についているものと思えてならない。
お嬢さんの今後に、心からの声援を送りたい。


第三回 " 盛岡ユ協 ジュニア班 "のこと
 話題はかなりさかのぼりますが、昭和43年5月に盛岡で開催された第5回日本青年ユネスコ全国大会に出席した盛岡市内の高校生数人が、ユネスコ活動に対する大きな刺激を受けました。
 私は丁度その頃、盛岡三高勤務で社会科の授業の「国際理解」のうち"ユネスコ"についての授業をしておりました。全国大会参加で刺激を受けたばかりの2年生のある女生徒から、「盛岡三高にユネスコ同好会を作りたいので、顧問になって欲しい」と相談を受けました。当時盛岡三高の部活動は予算面からも新しい部の参入はかなり難しい状況にありましたが、彼女は積極的に校長室をも訪ねてその熱意を語り、私は何度か校長室に呼ばれ、校長・教頭・生徒課長と話し合いました。学校としては次年度の生徒総会に提案することを勧めましたが、彼女は仲間と共に「来年は3年生で進路のことが本番を迎えるので、年度途中ながら直ちに活動したい」と強く主張し続けました。最終的には、私が関わっていた放課後の「読書会」と抱き合わせで校内活動を認めて貰い(時代の趨勢で校内における生徒の組織活動には幾つかの手続きが必要な時代)校内におけるユネスコの実質活動が始まりました。
 積極的な彼女は、前述の全国大会に出席した盛岡一高と盛岡四高の2人に働きかけ、盛岡市内の"高校生連盟"の設立に情熱を燃やしました。
 しかし当時は「高校生の部活動で他校生との交流には、思いのほか神経を使う傾向」が強く、先輩教師からは「生徒の部活動は校内に限る方がいいよ」との話も得ました。
 丁度その頃、ユ協との関わりを持っていた私は、盛岡ユ協の菊池三世子氏、続いて遠山美知氏に相談をし、紆余曲折を経て、対外的には「盛岡ユネスコ協会」に位置付けることで暗黙の了承(盛岡ユ協の総会には諮らなかったと記憶)を得ました。
「 盛岡ユ協ジュニア班 」の誕生です。

 大義名分を得たジュニア班は、前述の三高・一高・四高のほか久保高(現盛岡女子)、盛農、白百合、二高、岩女等のメンバーも含め毎週土曜日の午後に例会を開く習慣となり、やがて岩手山青年の家で留学生8人を含む2泊3日の合宿研修会(40数名参加)を開催するまで活況を呈しました。
 思いがけない苦労は例会の会場でした。しばらくは久保学園高校を、その後しばらくNHK会館( 現NHKの前庭にあったNHK旧館 )を多く使わせてもらいましたが、NHKの建物が取り壊しとなることで、会場選びにかなりの苦労をしました。
最終的には遠山美知先生に相談をしたところ「ウチの学校を使えばいいわよ」の有難いお返事で遠山病院付属准看護学院の一室を使わせていただくことで安堵し、毎週土曜日に「遠山准看学校」通いをしたことも忘れられない思い出で、今は亡き遠山美知前会長さんに改めて感謝申し上げます。
 そして、高校生のユネスコ活動を積極的にご理解くださった方に目時隆太郎先生がおられます。目時先生は県立高校長を定年退職後、久保高校に10年間勤務され、高校ユネスコに大きな関心を持ち、率先して「各クラスにユネスコ委員2名を配置」し、学校単位でユネスコ活動に参画されました。
 このことはユニークな取り組みとして、全国的にも話題を呼びました。諸々の事情から盛岡ユ協や県ユ協には加入こそしませんでしたが、校内活動では、ロングホームルームの時間にユネスコ・国際理解のテーマをクラスごとに設定したり、特にも盛ユのジュニア班には常々好意的なご理解を賜りました。
 また、高校ユネスコ全国大会を過去2回、岩手で(岩手山青年の家と県南青少年活動センター)開催しています。昭和51年7月開催の最初の岩手大会は過去最多の230名が出席、この参加数記録は今でも破られていません。この大会の主役を担ったのが盛岡ユ協ジュニア班で、その盛況ぶりには、日本ユネスコ協会からも大きな評価を賜りました。
 その後、石川県能登青年の家で開催された高校生全国大会にジュニア班6名、遠野ユ協の依頼による高校生2名と私の9名で2泊3日の参加、ジュニア班の面々は、ユネスコのあり方について胸を張って論陣を張り、注目を集めました。帰途、生徒の積極提案で、能登半島の海辺の民宿で更に2泊3日の時を過し、想い出倍増で帰省しました。
 あの熱き息吹を今一度甦らせたいものだが・・


第四回 高校教育に取り入れた二つの科目から〜 ユネスコ活動との接点を求めて 〜
 ユネスコ活動との接点も多いことなので、私が関わった高校における授業設定について振り返ってたいと思います。
 岩手県立杜陵高校は、盛岡夜間中学校でスタートし、間もなく創立90周年を迎えます。昼に働いた後、疲れた身体に鞭打って登校し、奮起して夜間に学ぶ学校として長い歴史を持っていますから、校歌の一節にも「わ〜れら は〜たらきま〜なぶもの(我ら働き学ぶ者)・・・」のくだりがあります。しかし近年では、世相の変化もあって働きながら学ぶ生徒の比率はかなり減っていると聞き及んでいます。卒業生は県内外の諸々の分野で大きな活躍をしています。
 私が平成4年度この学校に着任した翌年、学校の特色を活かしながら、入学して来る生徒により大きく役立つカリキュラムの設定により、在校生の見識をより深めたいとの思いから、"盛岡に在住する留学生との接触から得られるものが多いに違いない"また 海外に足を運ばなくても、"日本に住みながら学べる異文化理解の方策"も強く意識しました。
 当時(今でもそうですが)、杜陵高校の教育に大きな関心を抱いておられ、岩手大学人文社会科学部教授として"日本語・日本事情教育"を担当しながら留学生の面倒を見ておられる岡崎正道先生に相談したところ、全面的なご賛同を頂き、いろいろな国の留学生の中から前期に4人、後期に4人、計8人の留学生を推薦いただき、授業をしていただきました。
 授業の内容については「あなたの国の若者の様子や社会との関わりのほか、若者の悩みの傾向とその解決の一般的方向性、また、あなたの国の風俗習慣や人々の衣食住を中心に、生徒達と共に過ごす時間とされたい」とお願いしました。"政治・経済や歴史のことは避けて欲しい"とも付け加えました。理由は、授業が堅っ苦しくならないようにとの思いからでした。
 授業のネーミングについてもいろいろ考え迷いましたが、最終的には"外国事情"と"国際理解講座"の二つの講座でスタートしました。他校には見られない、一見変わった授業です。
 また、杜陵高校は「広く社会に開かれた学校」を標榜していますので、一般への公募も試みました。文部省の規定の中に"科目履修生"という枠がありましたし、県教委からは「面白い取り組みではないか」と、即答ではなかったにしても、認めてもらいました。
 当初、約20人の高校生と一般の"科目履修生6人"の受講生でこの授業がスタートしました。最初の講師はケニア・韓国・ペルーの男子学生とマレーシアの女子学生でした。
 講座の実施に当たってとても大きな関心を示してくださったのが、盛岡ユ協の遠山美知会長と菊池三世子理事でした。特にも"科目履修生"については、何人かの方々に声をかけてくださるなど、ご協力とご助言をたくさん頂戴しました。改めて感謝申し上げます。
 授業展開の一部を紹介しますと、こちらからお願いしたわけではなかったのですが、どの授業でも数回は、自国の民族衣装を身につけて「これは私の国に多く見られる礼服です」とか「これは私の国の祭りに着る服装です」などと、それぞれの民族衣装を身につけて授業をしてくださることで、当然のことながら受講生は、眼を丸くして授業の虜となっていました。スタートしてから18年、この授業で教壇に立った留学生の数は、およそ50名にのぼります。多謝!
 一方、この企画(授業設定)が「ユニークだ」とか「面白い」との視点から、発足当時多くのマスコミ(地方紙全紙と共に、全国版では日経・産経・共同通信を含む全紙、そしてテレビ各社)からの取材をいただき、全国版・地方版共、事あるごとに大きな記事紹介を頂きました。全国からの視察者も多数来ました。
 この授業は、多少のネーミングの変遷こそあれ、今日に至るまで続いていることに、喜びを大きくしております。ちなみに現在の科目名は、一つにまとめて「国際理解」とのことです。
 振り返ってみると、このような教育への思いがユネスコ活動への大きな接点となれたと思います。当時の生徒の中には、県ユ協や盛岡ユ協の活動に関心を示して、ユ協の講演会に参加したり、地元の活動に参加したり、ユネスコへの入会を意識(一関、水沢等)するなど、ユネスコ精神・ユネスコ活動に大きな関心を持つ生徒もおりましたが、会費のことや仕事の時間調整のこともあって入会には至らなかったと記憶しています。
 現実の話としては、近年私たち盛岡ユ協の有志が、毎年1月に岩手山青年の家で開催される「岩手県高校ユネスコ研究大会」に積極的に参加して、受付を担当したり、分科会にも参加して、県内の国際理解活動に関心を持つ高校生を中心とする若者達と意見を交わし、コーアクションにも積極的に参加する活動が続いています。この高校生研究大会と大きな関わりを持つ岩手県高等学校文化連盟(俗称:岩手県高文連)の事務局が、その頃から杜陵高校にありますことにも一縷の絆を感じる次第です。
 盛岡ユ協はこのような形で、時代を担う若者達との接点を持ち続けていることが、若者と交流しながらユネスコのあり方を工夫し合う一つの場となり、大事な絆となっていることにも気づき合いたいと思います。


第五回(最終回)盛岡在住留学生との交わりを通して
 前号で触れた岩手大学教授岡崎正道先生に、現在、岩手に在住する留学生のおよその人数を伺ったところ、岩手大学に約180人、富士大学に約100人、情報ビジネス専門学校に約100人、岩手県立大学に約30人、一関高専に約10人、岩手医大に4〜5人、県内公私立高校に約20人(年度により人数は大きく異なる)、主婦の立場で大学等で学ぶ方々等を合わせると、およそ500人弱に及ぶのではないかとのことでした。
 このうち主に岩手大学で学ぶ留学生を中心として、前掲の岡崎先生の音頭のもと“地球市民の会”代表の渡辺充行氏を含む方々のご尽力によって開催されている留学生に関わる行事を紹介します。「留学生と市民の餅つき大会(上田公民館、1月)」、日本の正月に当たる「“春節”祝賀会(ホテル東日本、2月)」「ハイキングと花見会(高松の池等、4月)」「留学生と市民のガーデンパーテイー(岩手大学留学生会館前庭、6月)」「平泉等の観光(毎年ではない)」、「“アジアの屋台村”と“外国人のど自慢大会(おでって前、7月、盛岡国際交流協会主導)」のほか“大学祭”への参加等があります。7月の“アジアの屋台村”は、数カ国の留学生が自国の特色ある料理をその場で料理して、市民・通行人に振る舞う(少額ながら有料)もので、3年前から行われており、年々好評の度を増しています。同じ場所で“のど自慢大会”も行っています。
 私はこれらの諸行事に、可能な限り参加しています。いろいろなイベントで留学生と接する中で、何人かの学生に次のようなショートインタビューを試みました。即ち「あなたが最初に日本に来た頃に、“とてもびっくりしたこと、驚いたことは何でしたか?”一つだけ挙げてください」と。列挙してみます。
 先ずタイからの留学生(以下“学生”と表記)は「学生のアルバイトが多いことにとても驚いた。しかし、自分も経験してみて、とてもいいことと思うので、タイに持ち帰り、ぜひ普及させたい」とのこと。現在のタイでは、学生のアルバイトは殆ど考えられないとのこと。次にウイグルからの学生は「女の人、特に若い女の子がタバコを吸う姿を見て、「信じられない!」と思った由。
 マレーシアの学生は「携帯電話の普及に驚いた。また車が多いのにフオンが少なく、鳴らす際にも小さく鳴らしている・・・イライラ感をかみしめている姿に感動した」。ベトナムの学生は「お手洗いがとてもきれい!これまで経験したことのない安心感(落ち着き)を感じた。また、車が多いのにフオンが低く、鳴らしている人も少ない」と。続いてモンゴルの学生は「大風呂に皆が一緒に入る習慣に驚き、最初は戸惑った」。次に北京からの学生は「とても寒い日でもソックスを履かない若い女性が多いこと」と言い、重慶出身の学生は「盛岡はカラスがとても多い街、そして日本のカラスはとても大きい(中国のカラスは、日本の鳩くらいの大きさ)。」(彼女は盛岡グランドホテルでアルバイトをしていたことが分かり納得できました。)
 インドネシアの学生は「とにかく“時間がとても正確な国(電車や航空機等)”、次いで日常生活で“時間についてとても厳しい”」ことに驚いたが、生活に慣れて見ると「とても大事なことで、素晴らしいことだと思った」。最後にラオスからの学生は「大風呂にショックを感じて、最初は入浴できなかった。ラオスでも大きい風呂はあっても、その際はパンツを穿いて入る由。さらに「日本はとても忙しい国!また新幹線のスピードと雄姿がとても素晴らしい」ということでした。後半になるにつれて、「一つだけ挙げてください」が必ずしも守られていない感があり、「不公平だったのかな?“第2第3の驚き”も聞けば良かったのかなあ 」との思いも否めませんが、とにかくこのような答えでした。
 私は各留学生の回答にあえてコメントを加えず、本稿に接した皆様方のそれぞれの感想なり反応なりをお聞かせいただければ幸甚です。
 さて、留学生には、留学前に自国で試験を受ける“国費留学生”のほか、出身国または日本の財団等からの支給で学んでいる学生もおれば、“私費留学生”、更にその両者をミックスした形で生活している学生もおり、そのことにも大きな関心を持ちましたが、内容について、本稿では割愛させて頂きます。
 私はいつも「海外を経験しなければ国際理解は難しい〜は大間違い!」の主張を繰り返し強調していますし、ユネスコ活動の仲間の皆さんにも同じことばを繰り返していますが、盛岡に住む私たちの場合は、折角、地元で暮らしている留学生との接触の機会がありますから、意識的・積極的に接触し合うことが、より良きユネスカンに向けての更なる一歩に繋がるものと思っています。
 5回にわたって拙文を載せていただきましたが、お目通しくださった方々に厚くお礼申し上げたいと思います。≪ 完 ≫

   

                       盛岡ユネスコ協会副会長 高橋 千賀子



                             
序 章 ネパール〜遙かなる国

 手許に一冊の手作り小冊子がある。
「風と笑顔の光る国・識字教室をたずねて」(2001,3,22〜3,29)のタイトル。
盛岡ユ協のネパールスタディツアーの報告書である。
あれから早いもので8年の歳月が流れた。盛岡ユ協は長い間ネパールの識字教育に支援活動を続け、平成13年には盛岡ユ協会員有志13名で念願のネパールスタディツアーを敢行した。あの夢と現実が慌ただしく、ない交ぜになった一週間を思い返すと未だに熱いものが込み上げてくる。このツアーが我々のその後の活動の大きなターニングポイントになったのだなあと小冊子を手に今更に感慨深いものがある。

盛岡ユ協は今年6月で創立60周年、人間で言えば還暦という節目を迎えます。これを機に、8年前のツアーなどを思い出しつつ、来し方を振り返り再考することが、現在から未来へ、次なるスタディツアー実現と当協会の活動の方向性などを探る“よすが”になるのでは、との思いからこの稿を起こすこととした。

 まず、我が協会は何故ネパールを支援先に選んだのか?

平成13年訪問時 コイララさんを囲んで

 私のユネスコ入会は昭和58年(1983年) 「第2回狂言を楽しむ会」公演のお手伝いがきっかけだったが、この質問にはっきり答えることが出来ない。

 全ての経緯をご存じのはずの前会長・遠山美知先生はじめユネスコの礎を築いた先輩方ほとんどの皆さんが黄泉に旅立たれた。然るべき時にきちんと伺っておくべきだったと今更ながらに後悔先に立たず!

 推測の域を出ない部分もあるが、資料を基に検証すると昭和60年(1985)当時開運橋たもとにあったミドリヤ盛岡店にて開催されたファッションバザールの益金がネパールに送られたのが最初の支援金だった。

 当時の日ユ協連からのアドバイスがあってのことと思われる。

 このミドリヤ盛岡店のバザールというのは、当時の西武グループの総帥・堤清二氏と遠山美知先生が友人というご縁から、年に一回ミドリヤ店内でオークション形式も取り入れたチャリティバザールが開催された。

 店長さんが店内のめぼしい品々を、例えば毛皮のコート、ワニ革のバッグや高級衣料品や雑貨などをひょいひょいと集めてきて、即その場でオークション、当時話題に上がったチャリティの催しで大きな金額が寄せられた。

 この後もミドリヤバザールの益金はマハグティやバングラディシュなど各地域に送られ、ミドリヤ盛岡店閉店まで十数年続いたのだった。

 話が少し横道に逸れたが、その後、昭和63年(1988)、平成2年(1990)、平成5年(1993)とネパールの指導的立場にいらしたネムクル氏やムルミ氏の来盛があり、その間の平成3年には当時の遠山会長以下7名の女性会員がネパールを訪問し、このあたりからの交流がネパールという国を私たち会員に印象づけたのだった。

 ネムクル氏は若い官僚タイプの理知的なイケメンさんで、話も理路整然と英語も上手だった。

 ムルミ氏は小柄な人当たりの良いおじさんで、菜食主義という指令に接待係の私は思案投げ首、しかしご飯とお味噌汁が大好き、それさえあればということでホッとしたこと、博物館をご案内した折、展示物の古い農機具を御覧になって「これらはいずれも今我が国で使われている道具ばかり、珍しくも何ともない」と苦笑い、ネパール語訛りの英語が分かりにくくて往生したことなど懐かしい。

 そして平成7年(1995)ネパールの識字教育リーダーのインディラ・コイララさんという女性の来盛がきっかけで、彼女がリーダーを勤める、働く農村女性達の識字教室「IIDS」に支援先が絞られ、今日に至っている。

 コイララさん来盛時は、生憎、遠山先生と私はロシア・リァザン州建都900年祭に招かれ、盛岡を留守にしており、お目にかかれなかったが、留守部隊の皆さんが奮起し頑張って下さって、市内小中学校などでのコイララさんの講演会や交流会が大盛況で、盛岡市民に大いにアピールしたことなどが新聞記事にも残っている。

 コイララさんとは平成13年のツアーの折、ネパールで再会、旧交を温めた。彼女は長い間識字教育活動に携わり、しっかりと自分の考えを持ち、細やかな情報分析をまじえての「ネパールの厳しい現状」説明は説得力に溢れていた。

日本から特に盛岡からの支援に深い謝意を伝えていらしたことも印象深く、彼女の夢が一日も早く実現するよう祈らずにはいられなかった。

ネムクル氏、ムルミ氏の来訪は表敬訪問的な意味合いだったが、コイララ氏の来盛あたりからネパールという国が会員一人一人の意識にはっきりとインプットされ、“遙かなる国”から“気になる国”へと変化していったように思う。

 途中、東京・日ユ協連からの他の国への支援先の変更、見直しは?などの問い合わせもあったが、我々の答えはいつも“NO!”

 ネパールという国にこだわり続けた20数年といえよう。

 次回は、なぜネパールに行きたかったか、行かねばならなかったか、などに触れてみたいと思います。

第二章 ネパール ってどんな国

 このところ新聞を2面か3面から見る日が続いています。

 ネパール国の政情不安が気に掛かるのです。立憲君主制から連邦共和制にやっと移行し、これから本格的に国の体制作りなるかと期待していた矢先の紛争再燃。民族間の長い間の殺戮・憎悪・不信は一朝一石には消えないものなのでしょうか。
 無力感に陥りつつも、ネパール国民の皆さんの安否が気がかりです。そして我々の切なる願い、次なるネパールスタディツアーの夢叶う日がまた遠のいたかと会員一同に落胆ムードが漂い始めております。

さて、前回は当協会とネパールとの関わりの歴史を思い出すまま書いてみましたが、今回はなぜネパールに行きたかったか、行かねばならなかったかに触れてみたいと思います。

何故に? 理由は至極シンプルです。
 日本の子供達に、真実を自分達の目で見、耳で聞き、確かなことを自分の言葉で伝えたいと思ったのです。
 毎年3月、学年末の学校現場はフル回転の忙しい時期ですが、我々も少し忙しくなります。というのは、毎年ボランティア活動の成果や結果をユネスコに寄せて下さった小・中・高・各学校に、会長以下理事などが手分けをして感謝状伝達のため訪問しております。
 この場での子供達や生徒さん達との触れ合いが私の大きな楽しみで、沢山のパワーと元気をお土産に頂いてまいります。
 平成20年度も20数校の学校や一般市民から、沢山の善意や思いやりの心が集まり、ネパールの支援活動に生かすことが出来ました。

 私自身、正直なところ、ネパールを身近な国に感じつつも「そのうち誰かが行けたらいいなあ!」程度の思いで過ぎてきました。
 しかし協力校が年々増え、沢山の学校を訪問し、小中校生との交流の中で、彼らの純粋で温かく、パワフルな善意に向き合ううちに、我々は果たしてこのままでいいのだろうか?という疑問にさいなまれ始めたのです。
 我々は募金活動の結果をネパールに送り届ける、一方通行の集金マシーンに甘んじていて良いのだろうか。支援金品を託す日本ユネスコ協会連盟からはお礼状や領収書など事務的な書類は送られてくるが、しかしネパールの現状や生の声が実感として伝わってこない。
 まず、ネパールってどんな国? から始まって、盛岡からの沢山の真心と善意が一体どう生かされているのだろう? 果たして支援金の効果は上がっているのだろうか? またネパールの方々の思いはどうなのだろう、直接お会いして交流することが何よりの国際理解・国際親善になるのでは? などなど・・・
 これは自分達の目と耳と肌でしっかりと現地の様子、真実の姿を捉え、自分達の心で感じたことを、日本の子供達や協力下さった皆さんに発信し、伝えなければ! との思い止みがたく、スタディーツアー・ネパール行きのチャンスを狙って雌伏?年、平成11年の盛ュ協50周年記念事業が一段落した後の平成13年 3月、ついに念願のスタディーツアーが敢行されたのでした。
 次回はいよいよネパールで見たこと、学んだこと、感じたことなどをレポートします。

学校への感謝状贈呈風景と書損じハガキの山


第三章 ネパールへ 「ナマステ!」

 さあ、いよいよネパール行き決定。スタディツアーへの参加の顔ぶれも出揃った。しかしそこで早々に問題が一つ。参加者全員がシニアクラスで困る訳ではないが、次代を担うヤングクラスが何人か参加できないだろうか?との提案が出された。
 ネパールでの国際交流を老いも若きも共に体験出来たらとの願いだが、いざとなると難しい。そこで打開策として、若人を指導する先生に的を絞ってみた。
 各高校に働きかけた結果、二つの高校の若き指導者が参加下さることになり我らがツアーにヤングパワーが加わって万全の構えに仕上がった。
 スタディーツアー団員13名にユネスコ連盟から派遣されたコンダクター兼通訳の荒井千香子さんを加え、14名が運命共同体として編成された。
 準備期間の1年間は団員が手分けをしてのお土産の調達、ネパールに関する情報を収集しながらの勉強会、当協会の活動状況の発表準備、ネパールでの交流方法や手段の検討、各関係機関への連絡、挨拶など忙しくも充実の日々だったことが懐かしく甦る。

街に屯するネパールの男性

平成13年3月22日盛岡を発ち、一行14名はバンコク経由でついにカトマンズ・トリブバァン空港に到着、ネパールへ第一歩を踏み出した。
 初日と二日目はまずネパール理解のためのカトマンズ観光とマウンテンフライト、夜はネパールの識字教育拠点になっているノンフォーマル教育リソースセンター職員との交流会などが行程に組まれていた。
 3月とも思えないカトマンズの初夏のような強い日差しの中、歴史的な建造物がそのままに残されているパタン地区の観光からスタートした。
 13世紀頃に台頭したマッラ王朝から始まり、幾多の変遷を経ながらも、ヒンズー教や仏教に裏打ちされた独特の文化と古い家並み、王宮、寺院などが脈々と今に伝えられており、その素晴らしさに歓声が上がった。
 しかし雑踏の中を進むうちに困惑の場面も・・・
 街中に舞っているほこりや異臭、散乱するゴミの山、我がもの顔に路地をうろつく野良犬ならぬ野良牛!(牛は神聖な生き物として大切に保護されているとのこと)、観光客目当てに寄ってくる物売りの子供達と物乞いの手!また宮殿の周りや店先などに所在なげに座っていたり、ぶらぶらしている男性が多いことも奇異に感じられた。ネパールの殿方にはせっせと働くという意識が薄いのかもしれない。これらはネパールの慣習であり、文化なのであろうが、色々の違いを認めて受容する難しさも痛感した初日であった。

二日目は一行の楽しみの一つ、エベレスト見学のマウンテンフライト。ブッダ空港には20名定員の吹けば飛ぶようなプロペラ機が待機していた。
タラップに足をかけたとたんに、天候待ちということでしばし時間調整。こんなおもちゃみたいな飛行機で大丈夫だろうか?という不安を吹き飛ばそうと「明日の識字教室の皆さんに披露する盛岡音頭を稽古しよう」と衆議一決、タラップの下での盛岡音頭が空港中の注目を浴び、歌い手も踊り手もますますハッスル、思いがけない国際交流の場が展開した。
ブッダ空港にて

憧れのエベレストは白雲をバックに孤高の佇まいで神々しいばかりに輝いて我々を迎えてくれた。小さな窓からの世界最高峰との対面はひたすら感動の一幕ではあった。この白銀に彩られたヒマラヤ山脈は旅人にとっては大きな魅力には違いないが、険しい山肌にしがみつくように暮らす人々に思いを馳せると複雑な気持ちも交錯し、プロペラ機と共に思いも揺れた。
山また山の厳しい地形、数ヶ月も続く雨期という気象条件、カースト制度の足かせ、その上政治の恩恵が行き届いているようには見えず、貧困の悪循環を目の当たりにして、我々一行はたじろぎ、考えさせられ、しばし寡黙の人になった。
 長年夢にみたネパール!しっかり受け継がれている歴史や伝統そして文化に感服し、野良牛に驚き、ほんの一部を垣間見たに過ぎないのだが、次は何が飛び出してくる事やら、びっくり箱のようなスタディーツアーはこうしてスタートいたしました。

三日目、四日目がいよいよスタディーツアーのハイライト!識字教室の訪問や教室で学ぶ女性や子供たちとの感動の交流があります。
 ではハイライトは次回に!


第四章 ラリーグラス(ネパールの国花)のように
 ネパール滞在三日目、ネパールレポートもいよいよ佳境に入ることになろうか。三日目は識字教室の拠点になっているノンフォーマル教育リソースセンターを訪問、まず手始めにネパールの識字教育の現状を知るために我々の学びの場が設けられていた。
 ユネスコから支援を受け、ネパール国内で活動している五団体のリーダーやメンバーが準備万端整えて我々を待っていた。
 どの団体も自分達の団体の成り立ちや特長、そして活動の経過や実情、目指す目標などを写真やスライドなどで具体的に分かりやすく説明してくれた。
 以前、盛岡を訪れてくださったインディラ・コイララさんもIIDSの代表として、その後の状況を話してくださり、それぞれのリーダーの方の識字教育に対する真摯な姿勢と熱い思いが痛いほどに伝わってきた。
数ある情報の中で特に私の印象に残ったことは、識字教育イコール字の読み書きという図式以前の課題だった。つまり教育を受けるチャンスを逸した女性達にいかにして教室に足を運んでもらい、学ぶことに向き合ってもらうか、旧態依然の封建的な考えからの意識改革にかなりの時間とエネルギーを必要とするとのこと、意識の変化を促すことが識字運動の原点、使命であるということに深く頷く私がいた。
幸いにもこの変化が点から線に、線から面に国内全体に浸透してきて、識字運動20年、多くの人の願いと祈りが実を結ぼうとしている。日本からの支援が着実に生かされつつある事実を確認できた瞬間だった。

次に盛ユ協からネパールの皆様に我々の活動状況を説明する時間を頂いた。
 日本から、盛岡からネパールに寄せる善意や支援金がどのような活動から生まれ、どんな人たちが関わっているのか、ありのままの姿を伝え、知っていただくことも我々に科せられた役目かと考え、盛ユ協の一年間の活動状況と子供たちや生徒たちの募金活動、書きそんじ葉書回収の様子、感謝状伝達シーンなどを英文解説を添えてアルバムにまとめ、それを見ていただきながら話を進めた。皆さんは身を乗り出すようにして耳を傾け、活発な質問も出て、アルバムは終始引っ張りだこ、彼らも日本に深い関心を寄せ、情報収集に努めていると感じた。
 その後、盛岡から各団体へのお土産や盛ユ協50周年記念特別支援金の贈呈など一連のセレモニーがあり、情報交換しながらの和やかな交流の場が広がった。

 夕方になるのを待ち、いよいよ寺子屋訪問、成人の識字教室は夜間の教室なのだ。カトマンズ近郊のコカナ村に移動、部落の長老はじめ沢山の老若男女から野の花で作った首飾りの歓迎を受け、寺子屋教室に案内された。
 小さな古い農家の一間、8畳位の広さに机も椅子も無く、裸電球の下にあるのは黒板のみ、若い女性が先生で、生徒は十代から中年まで20人ほどがぎゅうぎゅう詰めで座っていた。
 あまりに窮屈そうな教室に我々一行は一瞬たじろいだが、挨拶を交わし、通訳を介してお話ししたり、持参した色紙を使って、膝の上の折り紙細工に四苦八苦しているうちに女性たちに笑みがこぼれはじめた。

次に案内されたのはここから暗い部落の中を歩いて10分ほど、こちらの教室はそれなりの広さがあり、明るく、先生は二十代の男性で生徒は30人ほどの成人女性だった。そのうちの数人が立って順次テキストを音読。一様に学ぶ嬉しさ、楽しさを漲らせ、誇らしげに胸を張り、その笑顔の美しさについ見とれてしまった。ここで一つ大きな発見!女性たちのテキストを覗いて気がついた。
学んでいるネワール語が自分達の話し言葉と限らないということだ。
寺子屋の生徒達は我々が仏語や独語などの外国語を学ぶことと同じ!という事実にショックを受けた。

         音読する女性                どうすればうまく折れるの

翌日の四日目はカトマンズからマイクロバスで1時間ほど走り、途中で小型のジープに乗り換えグンドゥ村に。ジャガイモの花や菜の花の咲き乱れる段々畑や荒野の山道を土ほこりにまみれつつ道無き道を進んだ。
そしてまたここで驚いたことは、この道の一部は寺小屋に通う女性達が自分達の通学のために切り開いて作ったとか、またもや感動の一幕!
グンドゥ村は山の尾根にすがるように位置していた。
盛ュ協の支援で建てられたブロック造り、8畳2間くらいの教室でやはりあるのは黒板のみ。しかし建物の裏手に案内され、付いていくと案内人は誇らしげに「これはトイレです」とのこと、トイレを別棟に用意する教室はまだ少ないとのことで、これは嬉しい設備だろうと納得した。
村自慢の屋外トイレ

遠来の客をもてなすためだろう、真紅の民族衣装で着飾った女性達は、あたかもネパール国花の真っ赤な石楠花・大輪のラリーグラスが咲き乱れているようで眩いほどだった。彼女達から花の首飾りをかけてもらい、さらにおでこには魔除けのティカ(植物性の赤色の汁)をつけてもらえば、もう皆ネパールの人。ここでも賑やかに交流の輪が広がった。狭い屋外のスペースだがぞくぞく集まってきた住民や子供達はかなりの人数、部落総出で歌い、踊り、太鼓の音が遠くの山々まで鳴り響いた。
ティカをつけて誰もがネパールの人

 やがて来る別れの時。手をとり合い目を見つめ、別れと感謝と激励の言葉をかける。言葉は通じなくとも思いは充分通じる。名残りを惜しみながら一人ひとり握手をし、彼らの感謝の心と固い決意を身体全体で受け止めながら車中の人となった。
 真っ暗な揺れる車中はしばし静寂、皆深い感動の余韻の中だった。
 誰かがポツンと言った「やはり来て良かった!」
 全員深く頷くばかり、識字教室の皆様の美しい笑顔が、車窓から見える満天の星の煌めきと同じようによりいっそう輝くよう祈らずにはいられなかった。

沢山のびっくり箱が一時にはじけたようなこの数日間、多くの感動やカルチャーショックを胸に、この貴重な体験をこれからどう生かすか、次なる課題をお土産にネパールに別れを告げた。

                  花で歓迎 IIDSの女性たち


 第五章 ネパールへ 〜 ありがとう

                    別れを惜しんで記念写真

 メンバー全員が予定通り無事帰国した。
 しかし盛岡を出発した一週間前と違ったところがあった。身体的な疲労がチラホラ見え隠れする中にも全員の「目の色」が明らかに違った。
 目の色というより輝きかもしれない。
沢山の感動というスパイス効果が最も大きな要因だろうか。感動に加えて勇気、元気、パワーというおまけも付いてきたようだ。

 数日間の滞在でネパール国の全容を把握できるはずもなく、日の当たらない影の部分、見逃した場面などもあったことと思うが、それでも感じること、考えさせられることも数多く、まさにスタディーツアーの真髄を味わい尽くした数日間だった。

 ネパールの抱える諸問題、様々な民族、宗教、言語が複雑に絡み合い、古くからの慣習やカースト制などに縛られつつも、新しい意識改革を浸透させ、そこから自立の道を探り、貧困の悪循環から抜け出す・というストーリーは我々が想像していた以上に困難を極め、膨大な時間とエネルギー、そして資金も必要とすることを肌で感じた。
 しかし今まさにネパールの皆さんはそのストーリーの入り口に立ち、そして歩き始めていた。
両手に「夢」と「希望」を握りしめ、目標をしっかりと見据えて・・
 識字教室の女性達の目に宿る強い光と溌剌とした美しい笑顔の理由がここにあった。
一方、我々日本人は?といえば。戦後と呼ばれる苦しい時を乗り越えて60数年、その間平和で自由で豊かな物質文明に埋没してしまったかに思えるのだ。
夢も希望もどこかに置き忘れ、無力感漂う流れの中に生きてきた故のひずみがここに来て色々生じてきているのではないだろうか。
人間生きるために何が必要か、何が大切か!我々日本人が失ったもの、忘れかけたことなどを彼女達は自然体で教示してくれた。
 深い感動に包まれると同時に、我々の中にもある意識改革が起きたのだ。盛岡駅に降り立った時の一人ひとりの目の輝きがそれを物語っていた。

 国際支援も国際交流も一方通行ではなく対面通行、「お互い様!」が最も相応しい言葉だと思い知らされた旅であった。

          笑顔が光る                     風が光る

 帰国後まず我々がなすべき事は、もっとネパールの皆さんのお役に立ちたいとの思い止みがたく、その方策を探ることだった。
「目の色」が変わった集団がついに本気?になった。
 ネパール滞在中から徐々に具体化していったアイディアの一つにバザーの見直しがあった。日を追う毎にメンバーの中のショッピング魔のテンションが上がりっぱなしになっていたのだが、それはネパール特産品の紅茶、銀細工、紙製品、パシュミナストール、民族衣装などの素晴らしさにあった。これは日本で人気を呼ぶ商品になりうるのでは?そうなればネパールという国をアピールしながらもっと沢山の協力と支援が可能になる、との目論見だ。
 それまでは他の団体との連合で開催してきたバザーを変更し、ユネスコ独自のネパールカラーで実施との計画が3ヶ月後の6月に、即、実行された。
 盛ユ協揚げての熱い思いがバザーを大成功に導き、恒例の看板行事となったユネスコチャリティバザーはネパールの現状を沢山の人たちに知ってもらう場になり、さらに会員同志の絆を深め、連帯感、充実感、達成感に満たされる場ともなった。
また、自分達の目と耳と肌で感じたネパールの印象を協力下さる方々に、自分達の言葉でしっかり伝えられることも幸せだった。
その結果、さらに小中学校の協力校も増え、支援の輪も大きく広がった。
スタディーツアーが盛ユ協のターニングポイントになった所以である。

 次なる盛ユ協の目標は次代を担う若い方達と共に行くスタディーツアーの実現である。ネパールの政情不安が収まらず未だに実行に移せない口惜しさ、もどかしさもあるが、ここは現地で活動を推進しているリーダーの方々、そして一歩ずつ歩みを進める識字教室の皆さんに熱いエールを送りながら、我々が出来ることを地道に積み重ねつつ、機が熟すその時を待とう。
 夢と希望をそれぞれの胸にしっかりとあたためながら・・・

 ネパールの皆さんありがとう!  またお会いいたしましょう

(長い間、拙い文のレポートにお付き合いいただき感謝申し上げます)

                                  高橋 千賀子

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