私は大阪府立芥川高等学校で和太鼓部に所属し、部長として活動しました。和太鼓部は今年創部十年目を迎えるクラブで、普段は地域のイベントや老人ホーム、幼稚園、小学校などでのボランティア演奏を中心に活動しています。老人ホームで演奏すると、いつもお年寄りの方々はとても喜んでくださり、中には涙を流して感動する方もおられます。
  和太鼓の演奏で大切なことは、常に自分と向き合い、ありのままの姿で真剣に演奏するということです。単なる演奏技術の上手さや表面的な美しさではなく、内面的な美しさをいかに出していくかが感動の大きさに繋がることを、私は体験を通して学びました。
  私達の学年は、クラブ活動の中で二回外国に行って演奏する機会がありました。一回目は昨年の十一月、トルコのイスタンブールで行われたJAPPAN  WEEK(国際親善協会主催)への参加です。それは日本の伝統文化を紹介するという催しです。そのイスタンブールで私たちは偶然、テロ事件に遭遇しました。今までテレビや新聞でテロ事件について目にすることはありましたが遠い国でのことと感じ、深く考えたことはありませんでした。しかし、実際に爆発音を聞き、砂埃を見たりして恐怖を感じ、同時に強いショックを受けました。テロは一瞬で多くの人の命を奪い、その人たちの夢や希望をも奪い取るのです。こんな酷いことを起こさせる現実があるのです。
  テロが起こった日、私達のメイン公演が中止になりました。その代わりにトルコの学生達と交流をしました。私は折り鶴を折って相手に渡しました。その人は、心から平和を願うかのように「PEACE」と言って大事そうに受け取ってくれました。私達はこの平和への思いを忘れないように、そして多くの人に伝えるためにそれ以後、和太鼓演奏用の衣装の胸元に折り鶴をつけることにしました。このトルコでの体験をきっかけに、私は世界の紛争や平和について積極的に目を向け、深く考えるようになりました。 
 二回目の外国での演奏は今年の十月、韓国の光州で開かれた「光州ビエンナーレ2004」での公演です。部員の中に在日韓国人の友達もいるので、この話が来た時、韓国という国が私には身近かなものに感じられ、是非行ってみたいと思いました。しかし、韓国の人たちは長い間、過去の歴史的経緯から日本の文化を一部拒絶していたことを知り、不安を感じました。

 食後はトゥーホという輪投げに似た韓国独自の投げ遊びをしたが、結構難しくてなかなか入らず、景品は末等のあめ玉しかもらえなかった。  夕方はソウル一番の繁華街で、若者が多く集まる明洞(ミョンドン)へ行った。ブティック、シューズショップ、アクセサリーショップ、化粧品店まで、ファッションに関わるあらゆる店が集まっている。CDショップから聞きなれた局がながれてくる。あれは日本の人気ボーカルコンビのケミストリー。日本りCDが韓国で販売されるようになったのはようやく去年からだ。店のお兄さんも日本語で話しかけてくるし、まるで日本にいるようだ。外に出ると私たちは人通りの中に完全にとけ込んでしまい、いろんなお店に入りながら、ウインドーショッピングを楽しんだ。
 夕食は、韓国料理で有名な参鶏湯(サムゲタン)という鳥鍋料理を食べた。お粥のようなスープで、様々な材料が入っており、味のハーモニーが何ともいえない旨味を引き出し、スープは鶏のダシがよく出ているのに脂っこくなく、さっぱりして美味しかった。夜は南山の上にあるソウルタワーに行き、カップルばっかりの中に混じって、アイスを食べながら宝石箱のような大都会の夜景を楽しんだ。
  最終日の3日目は、朝起きてトイレの順番待ちで冷や汗をかいたけど、朝食の後、ミギョンさんが所属している聖歌隊の人たちと会い、ミギョンさんの通訳で楽しくお話できた。一人の男性は昔、大学で日本語を専攻していたようで、「私は日本が大好きです。」などと日本語で話しかけてくれ、家族以外の人たちと交流できてとても良かった。 お昼に韓国では絶対食べたかったキムチチヂミを食べ、これで一応、韓国料理の代表的なものは網羅することが出来た。その後、ミギョンさんに丁重にお礼を言って別れを告げ、ガイドさんに見送られて飛行機に乗り、無事、大阪に帰ることが出来た。  短い2泊3日の韓国旅行だったけど、その中で韓国の家庭の雰囲気を味わい、韓国料理に舌鼓を打ち、名所や世界遺産を見学し、多くの人と交流できた。そして何より初めての一人旅、しかも外国への旅を経験して、自分がまた一回り大きくなれた気がする。又、こうしたふれあいの旅こそ日韓交流においてとても大切だと思う。最後に、このような貴重な機会を提供してくださった大阪ユネスコ協会、アシアナ航空、日通旅行に心から感謝したい。


大阪ユネスコ協会 役員    2005/6

名誉会長  山口 博恭 

会長     中馬 弘毅    衆議院議員

副会長    山幡 一雄    (財)大阪城ホール理事長
        山田  忍     関西ピアノ専門学校学長
        河田 悌一(新) 関西大学学長      

理事     竹内  脩     大阪府教育委員会教育長
        永田 祥子(新)  大阪市教育委員会教育長
        是永  駿 (新)  大阪外国語大学 学長
        田仲 拓二    朝日新聞大阪本社編集局長
        芝野 博文    大阪ガス(株)社長
        津田 和明    (財)大阪観光コンベンション協会 会長
        向笠 慎二    (株)大林組社長
        小林 庄一郎   関西電力(株)顧問
        室町 鐘緒    (株)UFJ銀行特別顧問
        奥田  務     (株)大丸会長
        柴田  稔    東洋紡績(株) 会長
        伊藤 助成    日本生命保険(相)会長
        御手洗正彦    日本放送協会大阪放送局長
        佃  芳江    一茶菴家元
        錦織 一郎    大阪YMCA総主事
        平井 夕紀美  大嶽筝曲学院相談役
        霞流 良子    北区更生保護婦人会 役員
        大川  均    大阪ユネスコ日本語教室代表

常任理事  武田 伸樹    大阪ユネスコ協会事務局長

監事     亀井 廉幸    公認会計士・税理士

顧問     太田 房江    大阪府知事
        関  淳一    大阪市長
        金森 順次郎  (財)国際高等研究所 所長
        秋山 喜久    関西経済連合会会長
        野村 昭雄    大阪商工会議所会頭
        橋本  守    日本国際連合協会関西本部長



    

そんな時に、テレビで中国のサッカーサポーターたちが持つ反日感情を見て、日本の伝統文化である太鼓を演奏しても歓迎されないのではないかと、不安に感じました。このように日本が拒絶されるのは、やはり歴史に大きな関係があります。 
 今回私たちが韓国に行くことによって、日韓の友好関係を改善するきっかけを作りたいと考えました。これを成功させるために顧問の先生と相談し、二つのことに挑戦することに決めました。
 一つは、スピーチを韓国語ですること、二つ目は光州地方の民謡である「珍島アリラン」を演奏するということです。現地の言葉で話し、現地の曲を演奏することで、友好や互いの文化を尊重したいという気持ちを伝えたかったのです。不安を感じながらステージに立ち、「ヨロブン、アンニョンハシムニカ」と呼びかけると、会場から大きな拍手と歓声が起こり、今までの不安が一気に消え去りました。
 演奏後には、日本語を強制されたという女性が、日本に対する思いが変わったと、部員の手を握り話してくださるという場面もありました。私はその話を聞いて、彼女の心のしこりを溶かすことが出来た喜びを感じながらも、なお複雑な気持ちでした。この年代の方々はみんな、昔、日本の侵略によって辛い思いをされたと聞いて、胸が苦しくなりました。だけど、そんな経験をされた方々が、私たちを受け入れてくれたことは、これから新しい関係を築くことが可能だという確信を持つことができました。何度も韓国語でスピーチをし、「珍島アリラン」を演奏するうちに韓国のサムルノリのチームが飛び出して来て応援してくれたり、仲良くなったスタッフの方々が先頭に立って踊ってくださったおかげで、会場全体が一緒に歌ったり踊ったり、抱き合ったりして一つになり、大きな感動の輪が広がりました。私たちの一方的な力では、この一体感は生まれなかったと思います。私たちの演奏や思いに韓国の人が応えてくれたからこそ、心からの感動に繋がったのです。
   この二回の外国での感動的な経験を経て、私は以前からなりたいと思っていた教師への道に進むことを決意しました。これからの日本をつくり上げていく子どもたちと真の平和について考え、一緒に平和の輪を広げていきたいと考えています。

 4月22日、うまれて初めて一人きりで飛行機に乗り、関西空港からソウルへ飛び立った。機内ではこれから始まるホームステイの旅に期待と不安が交錯する複雑な気持ちだった。ソウルの空港で私の名前を書いた紙を掲げているガイドさんを見つけたとき、心底ホッとした。空港から20分ぐらいのところにあるロッテホテルの免税店で少しショッピングをしながら、ホームステイ先のお母さんのミギョンさんを待つことになった。ミギョンさんは私たちを見つけると笑顔でそばにやって来て、「アンニョンハセヨ!美樹さん、ようこそいらっしゃいました。」と日本語で挨拶してくださった。私も事前に勉強した韓国語で「アンニョンハシムニカ!」と挨拶を返した。
  これから滞在するミギョンさんの家はソウル市内にあり、そこへ向かう途中の市内の風景は大都会そのものだった。8車線もの広い道路が走り、いたる所に大型スクリーンの街頭テレビもあって、見た限りでは大阪よりも大都会という感じを受けた。
  私がホームステイした家庭はお父さんとお母さん、セインちゃん(11)とドンホン君(8)の4人家族だった。 何度も日本からの訪問客を受け入れているらしく、みんな挨拶程度の日本語を話していた。私は子どもたちに日本から持ってきたお菓子のおみやげを贈り、一緒に遊んで仲良しになった。お父さんは韓流スターのチャン・ドンゴン似で、ハンサムな人だった。ご夫婦の結婚式の写真を見せてもらったが、芸能人が撮るような凝った記念写真でビックリした。結婚の記念を大切にしていて、羨ましく思った。  晩御飯は日本でも人気のプルコギだった。さすが本場で、唐辛子がきいていてあまりの辛さで汗が出た。そしてもちろんキムチも。台所にあるキムチ専用の冷蔵庫も興味を引いた。
  2日目はミギョンさんとソウル市内の観光に出かけた。午前中は、1997年にユネスコの世界文化遺産に登録された昌徳宮(チャンドックン)へ行った。昌徳宮は1405 年に正宮である景福宮の離宮として建てられた。しかし1592 年、豊臣秀吉の文祿・慶長の役ですべての宮殿が焼失した後、景福宮を再建するまで約270年間正宮の役割を果たした。美しい建物と秘苑(ビウォン)という庭で知られている名所だそうで、きれいなところだった。もみじや松などが多く植えられており、日本にいるかのような錯覚になった。 午後は仁寺洞(インサードン)という民芸品をたくさん売っているスポットへ行った。町並み自体が文化財になってており、茶店、工芸品店、骨董品店と画廊などが並び、生きた博物館とも言われ、韓国の文化にどっぷりと浸れる場所だった。お昼には冷麺を食べたが、日本の冷麺と違って甘酸っぱく、麺は黒く細くて短いものだった。

その他 2005
・民族の境界を越えて 「〜響き合う和太鼓〜」
             大阪府立芥川高校  3年  表  美樹

   韓国満喫!訪問記    大阪府立芥川高校3年  表  美樹

 2005年1月29日実施の「平成16年度国際理解・国際協力のための高校生のスピーチコンテスト(主催:大阪府教育委員会・大阪ユネスコ協会)の最優秀賞の副賞として贈呈された韓国旅行の感想文

「人形浄瑠璃文楽のユネスコ世界無形遺産傑作宣言」指定を記念して
文楽、歌舞伎、能楽等、日本独自の伝統芸能はすべて地方が創出したものであり、たとえば徳川幕府が命令して作らせたものではありません。現在行われている中央集権は戦後のある時期までは必要だったでしょうが、これからはもう少し地域に任せ、地域独自の活動を互いに競争して行うならば、その中から新しい文化が生まれてくると思います。地方分権はそういう意味でも大切だと思い、私はこれを進めている者の一人です。
 日本がこれから目指すことがあるとすれば、21世紀において世界的に通用する新しい文化をどのようにして作り上げるか、ということではないかと思います。 これ以上経済を追いかけて、これ以上豊かになれば、世界の反感を買うことになるのではないでしょうか。逆に、豊かになった人々もこれ以上物は欲しくない、それよりもう少しゆとりが欲しい、自分に何か教養を身につけたい、たとえば世界遺産を見て回りたい、といった気持ちを持つ方が増えてきていますから、これこそ日本に新しい文化が生まれる一つの素地が出来はじめて来たのではないかと思います。経済的には現在のレベルを維持することで十分ではないでしょうか。  それよりも、現在の日本人の個人資産約1,400兆円を生かしながら、過去の伝統をしっかりと自分たちの教養として身につけ、それぞれの地域で自分たちの文化を創ってゆく、これが日本のこれからの姿であり、目指すべき目標であろうと思います。かくして、世界的に評価され尊敬される国になってこそ初めて、日本が国際的にも大きな役割を果たせるのではないかと思います。  以上のような理念をもって大阪ユネスコ協会は皆様とともに努力いたします。ご理解ご支援願い上げます。
平成17年1月29日に実施した平成16年度「国際理解・国際協力のための高校生のスピーチコンテスト」における最優秀作品
世界遺産「昌徳宮チャンドックン」
前でホストファミリーの姉弟と
    大阪ユネスコ協会 会長 中馬 弘毅 

文楽という伝統的な私たちの芸能がこのたびユネスコ世界無形文化遺産傑作宣言の指定を受け、今まであまりこの芸能にご理解がなかった方々にもようやく興味をもたれてきたようであります。最近は若い観劇客も多くなり、文楽劇場が満員になっているのを見ることが多くなり、非常に喜ばしいことです。日本の古来の文化は、すべて江戸時代までに成立したものです。その後に日本はどういう文化を生んだでしょうか。もちろん西洋の文化を取り入れて日本の文化は発展しましたが、これらは西洋文化の模倣であり、 日本独自の文化ではありません。