畳の上で静寂の中、何百年も昔の歌人たちが詠んだ美しい日本語が節をつけられて詠まれていきます。私はこの競技かるたで全国大会にも出場しました。そんな、私が得意とする百人一首を外国の人に教えることができる機会がありました。学校にオーストラリアの姉妹校から訪問団が来た時のことでした。私たちは、百人一首の説明と、百人一首を使った簡単な遊びである坊主めくりの用意をして待っていました。そしてついに、訪問団の人たちが見学に来てくれました。すると私は、考えていた英語も浮かばなくなり、話しかけられずにモジモジすることしか出来なくなってしまいました。しかし、日本のことを知ってもらいたい、という私の強い想いから、何とか彼らの内の一人に話しかけることができました。
 “Shall we the game?"緊張のため、私は動詞である“play"を抜かしたでたらめな文法で話しかけてしまいました。私は自分の犯した恥ずかしい間違いに気付き、慌てて言い直しました。すると彼は、ニコッと笑って、「ゲームに誘ってくれるのかい?」というようなことを言いました。その後は、初めはみんな緊張している様子でぎこちなかったのが、下手な英語で懸命に話している内にすぐに打ち解け、心から笑い、一緒に坊主めくりを楽しむことができました。そして、帰り際に私に向かって彼らが言った“Thank you."の言葉と笑顔は、私の心を喜びで満たしてくれました。
 この日私は、日本の文化を外国の人に教えることができた喜びを、とても感じていました。私は、動詞さえ言えずに話しかけた私に対して、ありがとうと言ってくれた彼のことを忘れません。そして、一つの文化を共有することができた時間の中で感じた、自分の国のことを知ってもらえる、そして受け入れてもらえる喜びを忘れません。
 「外国の人とのコミュニケーションで一番大切なものは何だと思いますか。」これは最近、学校の面接で先生に聞かれた質問です。私は迷うことなく、「互いを想い合う心です。」と答えました。それは、私が経験してきた国際交流から学んだことでした。今まで言葉が通じない人でも、ニコッと笑い、互いを受け入れ合い、想い合う心があれば、心が通じ合わないことはありませんでした。
 私はこれからも文化、言葉を勉強していきます。互いが自らの国のことを教え合い、そして受け入れ、認め合えるような交流を、心の国際交流を目指して。本当にありがとうございました。
その他、UNDP、UNICEF、日本代表部、インド代表部、オーストリア代表部などを訪問し、また国連広報局、事務総長室、UNFPAなどで働く方々との懇談の機会もありました。
立場は様々でしたが、全ての方がご自身の仕事に誇りを持ち、圧倒的な実力を背景に、世界平和のために尽力される姿は、国連職員という立場を越え、進むべき人生の道を見せ付けられた気がしました。さらに私たち団員の質問一つひとつに対して、丁寧にわかりやすく、誠意を持って答えてくださる姿に、大人としての模範を見ました。関係者の方々に、心から感謝しています。
 最終日には、日本語を学んでいる現地の学生との交流がありました。「自由の女神」や2001年の同時多発テロで崩壊した世界貿易センターの跡地である「グランド・ゼロ」の見学、裏千家茶道体験や昼食会など、現地の学生と共にニューヨークを観光しました。
 「人種のるつぼ」と言われるアメリカ。交流した現地の学生の半分がアジア系であるなど、世界の中心地とも言うべきニューヨークの素顔を見ることができたような気がします。
 約1週間、この最高の訪問団で共に学んだ団員同士の友情は、もちろん私にとっても、そして団員全員にとっても貴重な財産になったのではないかと思います。短い期間ではありましたが、皆が非常に仲良くなり、何より楽しい訪問であったのではないかと思います。また中・高生でありながら世界について関心を持ち、真剣に考え、そして行動する将来を視野に入れているこのメンバーが、今回の訪問をばねとして、将来、日本中、世界中の重要なポストで活躍していることが楽しみでなりません。
 今回の訪問を通し、ここに書いたこと以上に、多くのことを学び、私自身、大きく成長することができました。またこれからの人生に大きく影響を与えたことを確信しています。この訪問を生かし、これからもしっかりがんばっていく決意です。関係者の方々に改めて深く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
その他 2006

大阪ユネスコ協会 役員    2006/6

名誉会長  山口 博恭 

会長     中馬 弘毅    衆議院議員

副会長    山幡 一雄    (財)大阪城ホール理事長
        山田  忍     関西ピアノ専門学校学長
        河田 悌一    関西大学学長      

理事     竹内  脩     大阪府教育委員会教育長
        永田 祥子     大阪市教育委員会教育長
        是永  駿      大阪外国語大学 学長
        田仲 拓二    朝日新聞大阪本社編集局長
        芝野 博文    大阪ガス(株)社長
        津田 和明    (財)大阪観光コンベンション協会 会長
        高木 嗣郎(新) (株)大林組社長専務取締役本店長
        小林 庄一郎   関西電力(株)顧問
        室町 鐘緒    (株)三井東京UFJ銀行名誉顧問
        奥田  務     (株)大丸会長
        柴田  稔    東洋紡績(株) 相談役
        石橋 三洋    日本生命保険(相)副会長
        堂本  光(新)  日本放送協会大阪放送局長
        佃  芳江    一茶菴家元
        錦織 一郎    大阪YMCA総主事
        平井 夕紀美  大嶽筝曲学院相談役
        霞流 良子    北区更生保護婦人会 役員
        大川  均    大阪ユネスコ日本語教室代表

常任理事  武田 伸樹    大阪ユネスコ協会事務局長

監事     金村 義夫(新) 大阪司法書士会監事

顧問     太田 房江    大阪府知事
        関  淳一    大阪市長
        金森 順次郎  (財)国際高等研究所 所長
        秋山 喜久    関西経済連合会会長
        野村 昭雄    大阪商工会議所会頭
        橋本  守    日本国際連合協会関西本部長



    

●株式会社大丸が大阪ユネスコ協会へ収益金を1年間継続的に寄付 
              
- 平成18年 大丸心斎橋店創業280周年記念事業の一環として-
 株式会社大丸とユネスコとは里見順吉大丸社長が昭和23年1月に設立した大阪ユネスコ協会・初代会長として深く関わり、
その後「日本ユネスコ協力会連盟」の発足にも貢献し、大丸社長を継いだ北澤敬二郎社長は「日本ユネスコ国内委員会」の委員、
日本ユネスコ協会連盟理事、第3代大阪ユネスコ協会会長としてユネスコ活動を推進した。
大阪ユネスコ協会の事務所は今日まで58年間、株式会社大丸の提供を受けている。 
 ◆大阪ユネスコ協会は株式会社大丸の寄付をユネスコの趣旨に沿った有効な事業に使わせていただきます。 
「チャリティーオークション福袋」収益金の一部を大阪ユネスコ協会へ寄付
平成18年、開店280周年を迎えた大丸心斎橋店は、1月2日、「チャリティーオークション“厳選28”福袋」を開催した。
大丸にゆかりのある著名人からの寄贈品はじめ多数の厳選品目が出品され、来場者の歓声と溜め息が会場を埋めた。
著名人からの寄贈品の売り上げの一部が大阪ユネスコ協会へ寄贈された。

 当協会では、下記の事業について寄付金を使用させていただいた(うち1件は予定)。
 寄付金の助成を受けた大阪ユネスコ協会の事業
◎平成18年度「親子文楽劇場」平成18年7月21日実施。
大阪市中央区・西区内の小・中学生の親子50組を、国立文楽劇場の人形浄瑠璃文楽公演に招待。 
◎平成18年度「国際理解・国際協力のための高校生のスピーチコンテスト」
  最優秀賞受賞者の山本侑加さん(大阪府立泉北高校2年)へ副賞として韓国研修旅行用  往復航空券を贈呈。
コンテストは平成19年1月20日実施。研修旅行は近日中に実施予定。

◎2007年度近畿ブロックユネスコ活動研究会(主催  社団法人日本ユネスコ協会連盟、近畿ユネスコ協議会、
大阪ユネスコ協会)に協賛予定。
 研究会は平成19年10月27日・28日、大阪国際交流センターで実施の予定。

 この度、「奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団」の一員として、2006年3月22日から27日までの約1週間、米国ニューヨークの国連本部に訪問するという、きわめて貴重な体験をさせていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
 今回の訪問で、本当に多くの方と出会い、触発されました。国連協会の方、外務省の方、国連職員の方、旅行会社の方、そして同行の訪問団のメンバー。その「人との出会い」の全てが、私にとって、今回の訪問で得た財産ではないかと思っています。
 21日夜、東京のホテルで行われた結団式には、外務省や国連協会、国連関係諸機関などで働かれる方など、大変多くの来賓の方が駆けつけてくださり、多方面にわたる懇談を個人レベルでしていただき、また激励していただきました。外務省などで働くことについてやその意気込み、細かな仕事上の詳細、さらには世界の現状や課題についてなど、様々な方の様々な話を通し、今春から大学に進学した私にとって、進路を考える上でも、大学で何を学ぶのかを模索する上でも、非常に参考になり、また影響を受けました。
 翌日の外務省訪問の際も、塩崎外務副大臣との懇談や、外務省職員の石川博崇さんによる国連に関するブリーフィングなど、社会の重要な立場で活躍される方々の話を通して、得るものがあまりにも多いことに驚き、ニューヨークに行ってから、どのような素晴らしい出会いが待ち受けているだろうとの期待を胸に、成田空港を出発しました。
 その期待は的中。国連本部や関係諸機関で働く方々は、皆いきいきとしていて、非常に新鮮さを感じました。
現地ではまず国連本部を見学しましたが、総会会議場など、テレビで出てくるような場所に実際に入り、見学したことは貴重な財産となりました。また廊下やロビーのいたるところに、加盟国各国の文化を生かした記念品や贈り物などが展示してあり、人種や宗教、文化などの概念を超え、一つの目的に向かって多くの国々が国連という存在を支えていることをこの目で実感しました。 
  平成17年度「国際理解・国際協力のための高校生のスピーチコンテスト」
  
 最優秀作品
 「心の国際交流」 河野桃子さん 大阪市立南高校3年
 アシアナ航空から韓国往復航空券、 日通旅行からソウルでの旅行が贈呈され
  韓国世界遺産見学旅行に派遣。


  「ニューヨーク国連本部を訪問して
         「文部科学大臣賞」受賞!   関西創価高校2006年卒業  平原英雄
   2005年11月24日第52回「国際理解・国際協力のための高校生の主張コンクール中央大会:テーマ<世界平和と国連>」に大阪代表として参加し、全国25人の中から特賞を受賞されました。特賞を受賞された4名はニューヨーク国連本部視察、国連関係者との懇談等に参加する。(日本国連協会主催・日本ユネスコ協会連盟他後援)
私が初めて外国を意識したのは、中学生の時に学校に転入してきた中国人の女の子と仲良くなったことがきっかけでした。私はそれまでに外国へ行ったことがなく、外国に対する知識も興味もありませんでした。彼女が私に初めて外国の存在を感じさせてくれたのです。そして同時に、私は自分が見ている世界の狭さを知ったのです。その後の私の考えは変わっていきました。外国に興味を持ち。「もっと国際交流をしてみたい。」と思うようになりました。その頃、私は進路を選ぶ時期に差し掛かっていました。将来は外国人の人と多く交流できる人になろう、と考えていた私は、初め何の疑いもなく英語や国際教養を学べる高校に進学しようと考えていました。しかし、自分の将来のことをじっくり考えていく内に、外国の人との交流とは一体どういうことなのか、私が目指す国際交流とは一体何なのか、という考えが浮かんできました。
 外国の人と交流する際、人は言葉を習得しょうと勉強します。もちろん、言葉は外国の人と交流するのに必要不可欠なものです。しかし、単に言葉が通じるだけで良いのでしょうか。言葉は思いを伝える為の手段であり、その言葉に意味を与えるのは、他でもなく言葉を使うその人なのです。いくら流暢に言葉を話すことができたとしても、その言葉に乗せる内容を持っていなければ意味のない交流となってしまいます。では、より良い意味のある交流をするために必要な、その内容とは何なのでしょうか。私が当時から考えている国際交流とは、互いが国や文化、言葉などを紹介し合い、そしてそれを認め合い、尊重し合うことです。そうして辿り着いた答え、つまり私にとって国際交流をするために必要なことは、日本のことをもっとよく知ることでした。
 日本で生まれ、日本で暮らしてきたにも関わらず、私は日本のことをどれ程知っているのでしょうか。実はあまりよく知らないのではないだろいか、と私は考えました。そして私は、国際交流の第一歩として、まず自分の国である日本についてもっと勉強し、日本のことを知らない人たちに胸を張って自分の国を紹介できる人になろうと思いました.そしてその春、私は日本唯一の国語科のある大阪市立南高校に入学しました。そして三年間の間に、日本語や日本のことについて勉強しました。また、さらに多くの日本文化に触れるような経験をしました。
 その内の一つに、私が所属している百人一首かるた部での活動があります。この百人一首かるたは、日本の伝統文化であり、それを使った競技かるたも、礼に始まり礼に終わるといったような礼儀を大切にするものです。 

お礼 

『書き損じハガキ回収キャンペーン』ご協力ありがとうございます。
全国にまたがる社会福祉団体が発行している広報誌『ほほえみ広場』を通じて大阪ユネスコ協会からのお知らせを2006年9月号に詳しく掲載していただきました。その結果全国の購読者・皆様より多くの書き損じハガキおよび使用済み切手が大阪ユネスコ協会に寄せられています。
出航に際して「海の神」である住吉大社に海上の安全を祈願して後、住吉津から難波津に至り、瀬戸内海を西進したようです。この住吉津は五世紀前半に仁徳天皇が難波の堀江(大川)を開き、難波津ができるまでは日本最古の国際港でした。その後、難波津に表玄関が移り、朝鮮三国からの使節団が頻繁に来朝します。607年、遣隋使小野妹子が携えた国書を隋の煬帝に奉呈し、隋は翌年4月には国使を遣わします。一行は筑紫(博多)を経て難波津に到着しました。
 古代の大阪と中国の深い絆   聖徳太子は、隋からの答礼使への接見のために準備万端を整え、8月12日に飛鳥の宮に初めて到着した中国の国使を迎えました。その後、中国の政権が隋から唐に交代しても遣唐使を派遣するなど日中国交は頻繁に重ねられて、日本の文化や国土形成に大いに影響を与えました。
 2007年は日中国交1400年   2年後の平成19年(2007年)は、日本の中央政府と中国政府が正式に国交を開いて1400年になる歴史的な年です。東西文明の架け橋であるシルクロードの東の玄関口として古代から栄えた大阪、そして中国との関わりをもう一度両国民に思い描いて頂きたいと考え、607年の遣隋使派から始まった「日中友好1400年」を記念する行事を、2年後の平成19年に大阪から打ち出そうと思います。そこで6月26日から3日間、日中科学技術協力会議の代表理事として杭州や上海を訪れ、住吉大社での記念シンポジウム開催を軸とする記念事業開催の基本的な打ち合わせを中国側関係者と行いました。 日中友好1400年の壮大な歴史のロマンを踏まえて、東アジアの平和と安定に、ひいては人類の未来への新たな文化・文明の出発点となれば、と願うものです。大阪ユネスコ協会会員の皆様方の御理解と御協力をお願いいたします。
 607年に遣隋使を派遣 日本と隣国の中国とは近代だけでなく、日本歴史の曙である飛鳥時代の推古8年(600年)に交流を始めますが、日中双方に記録が残っているのは同15年(607年)が最初です。日本書紀によると聖徳太子が、中国(隋)に小野妹子を国使とする遣隋使を送ったと記されています。今から約1400年前のことです。
「日中交流1400年の意義」
         大阪ユネスコ協会 会長
            日中科学技術協力会議 代表理事
 中馬 弘毅