大阪ユネスコ協会 役員    2010/6 現在


会長     中馬 弘毅    前衆議院議員

副会長    山幡 一雄    元大阪市経済局長
        山田  忍     関西ピアノ専門音楽学校校長
        吉本 祥生    兵庫中央病院名誉院長      

理事     中西 正人    大阪府教育委員会教育長
        永田 祥子     大阪市教育委員会教育長
        横井 正彦    朝日新聞大阪本社編集局長
        中井 喜三    大阪ガス(株)執行役員 総務部長
        
奥田 務     J.フロントテイリンク゛(株)代表取締役会長
        藤澤 誠一    (財)大阪城ホール理事長
        柴田  稔     東洋紡績(株) 相談役
        堂元  光      日本放送協会大阪放送局長
        末岡 祥弘     大阪YMCA総主事
        平井 夕紀美   大阪ユネスコ協会日本語教育研究委員
        霞流 良子    北区更生保護婦人会 役員
        大川  均     大阪ユネスコ協会日本語教育研究委員
        楠見 晴重(新) 関西大学学長 
        森   一貫    関西外国語大学教授
        林田 雅至    大阪大学教授   
        辻  祥光(新) アクトレップ(株)代表取締役社長    

常任理事  武田 暢樹    大阪ユネスコ協会事務局長

監事     金村 義夫    大阪司法書士会監事

顧問     平松 邦夫   大阪市長
        金森 順次郎  山田科学振興財団理事長
        佐藤 茂雄(新) 大阪商工会議所会頭
        橋本  守    日本国際連合協会関西本部長

      河田 悌一(新) 日本私学学校振興共催事業団理事長 

    
 想像してみてください。いま貴方は紛争地域にいます。目の前に草も木も無い平野が広がっています。いまここに貴方にはどんな未来が見えますか。どんな未来を描くにしても現実には、まず一歩を踏み出さなくてはなりませんよね。さあ、踏み出しましょう。
               「ばん」
もしそこが本当に紛争地域だったらなら、貴方はいま地雷を踏んだかもしれません。
 私達日本の学生は、普段の生活の中で戦争を身近に感じることはありません。それどころか戦争というものの存在を、忘れてしまったような感覚におちいることすらあります。教科書やニュース、近所のスーパーの募金箱をみて、戦争の存在を思い出すということもよくあります。しかし一度思い出しても、私達はどこか人事のように思っています。私は夏休みの課題で、世界の紛争や戦争について調べました。信仰する宗教の違いで戦争が起こってしまうことや、まだ多くの地雷が埋められたままだということを知りました。戦争がまだあるとうことにすら驚きと恐怖を感じてしまいました。確かに私達は戦争にとって第三者です。しかし、大半の人はそのことを忘れているように感じます。多くの人は、いま日本が平和に向けてどのような活動、支援をしているのか分かっていません。私達は第三者にすらなりきれていないのです。
 今回、国際理解
国際協力について考える機会をいただき、初めて真剣に平和について考えました。その中で、私はしらないということが怖いことだと感じるようになりました。それは私の三つの経験から辿り着いた考えです。
 一つ目は、私が中学生のころの経験です。私が三年生のとき、先生から私達生徒に伝えんければいけないことがあると言われました。「私達の学校では、いまラオスの女の子を支援しています。集めたプリペイドカードと書き損じ葉書を換金して、その子の学費にしてきました。しかし、今集まっている枚数では、一年分の授業料になりません。このままでは学校に行かせてあげることが、できなくなってしまいます。」と先生は言いました。私は先生の話にとても驚きました。なぜなら私を含めたほとんどの生徒が、そのとき初めて女の子のために集めていたと知ったからです。その後、たくさんのプリペイドカードと書き損じ葉書が集められ女の子は学校に通うことができました。でももし、私達が何に使われているかを知らないままだったら、集まらなかったはずです。知るか知らないか、それだけで女の子の未来は大きく変わっていたのです。
  知らないことが怖いのは、現地にいる人たちも同じです。たとえば、私達が当たり前にしている読み書きですが、読むということができないために、命を落としてしまっている子供たちがいると知っていますか。その土地の環境の問題も重なって起きる悲劇です。日本にきた観光客がもし日本語を読むことができなくても、命に関わることは無いと思います。
 しかし、もしそこが紛争地域ならば違います。場所によっては未だに地雷などが埋められたままなのです。例えば、カンボジアでは地雷の看板が読めずに毎年200人もの子供たちが亡くなってしまうそうです。  この話を聞いたことが、私の二つ目の経験です。これ以外にも私達の知らないことがまだまだあるはずです。お互いにとって知ることはとても重要なことなのです。これら二つの経験は知識として知るということの大切さともいえます。
三つ目は、感情を知るという経験です。私は地域の合唱団に入り歌を習っていました。そのときの指揮者の方が風邪になってしまい、卒団生の女性が臨時で来てくださいました。その方は難民キャンプで子供たちに歌を教えていると、話してくださいました。先生が教えている子供たちは長い間恐い思いをしていて、そのせいか笑顔を見せることも少ないそうです。始めのうちはなかなか歌も歌ってくれなかったそうですが、次第に歌うようになり笑顔も見られるようになったそうです。世界には楽しいという感情が、わからなくなってしまった子供たちがいて、そんな子供たちに楽しいという感情を知ってもらうことも必要なのだと分かりました。
 このような経験から、私達にいま求められているのは、現状を知り理解をするということだと考えに辿り着きました。そして、先頭に立って現地で活動する人達だけでなく、第三者という立場である人しか出来ない役割もあると知ることが必要です。現地の人に文字を教えることや、音楽の楽しさを伝えることは、自ら現地に赴いて活動をしなければできないことです。しかし、そんな人達を派遣するための資金を集めることは、私達にしかできないのです。国際理解や国際協力と聞くと、とても大きなことのように感じてしまいがちです。何か特別な活動をしてきたわけでもないから、自分には関係無いと、思わず一歩ひいてしまいます。しかし、関心を持ち調べるということが国際理解への第一歩、小さなボランティアも色々な所で繋がり、大きな輪となり国際協力になるのだと思います。今まで私は、平和や戦争について、活動をしていたわけではありませんでした。そんな私でも、今回のこのスピーチコンテストに出ることを先生に薦められた日から、スーパーの募金箱1つから見方が変わりました。これは国際理解への小さな一歩だと感じています。もし多くの人が私のように、平和について考え、関心を持つようになったなら、それは国際理解への大きな一歩です。
 想像してみてください。いま貴方の目の前にはとても平和な世界があります。全ての子供が学校に通う権利を持ち、戦争の存在も忘れ、楽しいことがあれば笑う、それが当たり前の世界です。気づいていますか。私達が過ごしている世界です。気付いてください。戦争の苦しみを忘れることができない人もいます。まだ、戦争を忘れないで ください。
 (原文のまま)
その他 2010
  平成21年度『国際理解・国際協力のための高校生の
スピーチコンテスト』最優秀作品
 
平成22年1月23日に実施
(主催大阪ユネスコ協会、大阪府教育委員会)

 「戦争=私達が忘れかけているもの」  
   
大阪市立扇町総合1年 鷹居 真記さん
 

    「パリ・ユネスコ訪問」報告に想う
                     大阪ユネスコ協会  会長 中馬 弘毅
  ー大阪の活性化と文化〜私の信条−
             経済だけの街から経済と文化の街へ―
 私はかねてから、大阪が利益追求を優先して文化を育むことを忘れた「経済だけの街・ 大阪」になってしまうといずれ衰退すると言ってまいりました。その都市特有の文化が根付いて、つねに文化情報が外部へ発信されておれば、景気の好不況があっても都市は賑わいと発展を続けるものです。 

    ―「大阪を活気にあふれ、魅力ある楽しい街に」―

大阪を愛し、大阪の繁栄を目指す私の大阪文化活動再生の目的の一つであり、2001年、大阪ユネスコ協会の会長に就任以来、一層強くなった私の大阪街づくりの理念です。 文化の香り高い、楽しい国際都市OSAKAに〜。ビジネス街だった御堂筋におしゃれなブティックやカフェが次々オープン。現在、歩いて楽しい遊歩道への転換が実現しつつあります。この情景を私はフランス・パリのシャンゼリゼ大通りに写して、その早期実現を夢見ている次第です。  
  
    ―宜を得て有意義だったパリ・ユネスコ本部訪問

ブダペスト「エリザベート橋ライトアップ祝典」行事参観―

2009年11月17日、日本・ハンガリー国交樹立140周年、大戦後国交回復50周年を記念して、同国首都ブダペスト市内を流れるドナウ川に架かる「エリザベート橋」点灯祝賀国家行事に、関西ハンガリー交流協会・大阪ユネスコ協会会員代表の方々が参列されたのを機会に、19日、一行はパリのユネスコ本部を訪問・見学されました。同年11月は、ユネスコ事務局長の任期満了のため、松浦晃一郎・前事務局長、イリナ・ボコバ新事務局長ともに不在でしたが、私が訪問団に託した「メッセージ」は事務局長秘書のかたに預かってもらったそうです。

  パリ・ユネスコ本部訪問・見学のご報告が、新事務局長からのメッセージ披露とともに、本年の新年会の席上行われ、私の何度かのパリ訪問の想い出とともに懐かしく、興味深く聞かせていただきました。 訪問団のみなさんも、パリのシャンゼリゼ大通りを印象深く散策されたことでしょう。皆さんの旅行報告を聞かせていただいて、私の「文化の香り高い、楽しい国際都市OSAKA」構想は、実現化に一歩近付いたと感じています。
 上海万博「日本文化交流祭」開催
                 大阪ユネスコ協会 会長 中馬 弘毅


戦後、アジアでは1970年の「大阪万博」に次ぐ大規模な万国博覧会が今年、中国の上海市で開かれました。 その「上海万博」が10月末で盛会裡に幕を降ろしました。

「大阪万博」の入場者6400万人を越えることが中国にとっての一つの目標でありましたが、入場者7300万人を記録したことはご同慶の至りです。私も二度足を運びましたが、人気館は大変な行列で、中国館やサウジアラビア館、日本産業館などは、遂に見ることができませんでした。

  ともあれ、わが大阪ユネスコ協会も、日本館の一部に設置されたイベントステージで9月14日、「日本文化交流祭」を主催することになり、関係者や参加諸団体ともども上海へ入りました。日本から、日本舞踊や琴演奏、和太鼓、和装など9団体が参加、それぞれ熱演を繰り広げました。中国の観客の人達も日常ではこのような日本の伝統芸能、文化には接する機会が無いだけに、とても興味深げに、また和太鼓などでは会場が一体となって大いに盛り上がりました。
ところで、私どもは三年前に西安市で遣隋使派遣1400年記念式典を陜西省政府、住吉大社ともども開催しました。そして神式の御祓や祝詞を執り行うとともに伝統芸能などの披露を行いました。  その時にも感じましたが、中国の殆どの人々は、日本といえば先の戦争の相手国、西欧文化受入れの先進国、そしてソニーやパナソニック、トヨタや資生堂などのブランド品、また「北国の春」や「昴(すばる)」の歌を知っているぐらいで、日本と中国の2000年に及ぶ幅広い交流や、中国文化の受入れ咀嚼−即ち日本文化や芸能の中にも色濃く中国の影響が息づいていることは知らないようです。

  UNESCO運動はご存じのとおり、戦争の要因の多くは貧困と無知と宗教文化の違いから起こるということで、第二次大戦後、国際連合 UN の下に教育の普及、科学技術の発展、文化の交流と相互理解に寄与することを目的に始まったものです。  その面から云うと、中国は教育水準、科学技術の発展に関しては急速な進歩で先進国と肩を並べるまでになりましたが、日本と中国との文化の相互理解、交流という点ではこれからの課題だと思います。