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近況報告

会長 本多 隆

ネパール視察訪問 2001.10.1010.24

ネパールへの訪問は1993年よりユネスコ寺子屋運動を始めて以来今回で12回目になる。参加者は私一人。

目的は2001年度の

1.        里親プロジェクト268人の里子への支援金の贈呈。

2.        既に里子支援している4校里子100人のプロジェクト運営の監督指導。

3.        学校建設プロジェクト(319教室487万円)贈呈及び各校の建設委員会との打ち合わせ。

4.        次年度里子募集の説明会。

 

1010

早朝4時大宮の自宅を出発、空路、羽田から関西空港へ。1230分発のロイヤルネパール航空、上海経由でカトマンズ着が19時。                 ホテル泊。

テロ事件後、アメリカによるアフガンへの空爆が開始され、世界中で空の旅が敬遠されていた。協会の会員からも、不要不急の事で、この時期にわざわざ行く事も無いだろうとの助言も頂いた。

私としては、縁あって識字教育への使命感から始めたこのボランティア事業、里親プロジェクトは始まったばかりで、仮に本当に使命があるならば「神様は、私を少なくとも、まだ今この時期にあの世にお召しにはならないだろう」とたかをくくった。

飛行機はヒマラヤへのトレッキングの日本人とネパール人・中国人でほぼ満員の状況だ。

ただ、関西空港国際線ロビーはガラガラであった。

1011

現地NGOの協力者ゴパルさんとカトマンズから空路1時間でバイラワ空港へ、そこからタクシーで2時間、古都タンセン(カトンマンズ南西200K)、同じく仲間のロスさんと合流する。                               ホテル泊

1012

ジープをチャーターして、フーミンのジャナヒット中学(生徒数350名)を訪問。ここで現地協力者、垣見一雅さんと合流する。

ジャナヒット校建設プロジェクト232万円、11教室贈呈を改めて教職員並びに生徒達に発表し、建設の打ち合わせをする。

レンガ造り、5.44.6mの11教室、トタン屋根と窓、ドアをユネスコのイメージカラーとしてイエローで塗装し、校舎側面にユネスコのロゴを描くことと取り決める。

着工 ティハール祭の後の11/25。  竣工 翌年5月末予定。

里親就学プロジェクトの贈呈式会場であるランプールへ向かう。      ホテル泊

1013

午後1時より贈呈式及びプロジェクトの次年度募集説明会の受付を開始する。予定していた会場では入りきれず急遽、屋外ですることとなった。日差しが強いので心配していたら、「良い場所がある」と言う。大きな菩提樹が涼しげな木陰を作っている広場を用意してきた。そこに机と椅子を3組並べて演台をつくり、出席者は地べたに座って貰う。103校の校長と各地域の郡長、自治委員、青年団員等、157名が参集した。東パルパ県の学校は、ほぼ全校参加したようだ。彼らの期待の程が伺われた。

先ず、今年度のわが協会のネパールへの支援プロジェクト発表をする。

建設プロジェクト 3校19教室を建設する。487万円のうち、60%を建設資金に、20%を協会の経費に、同じく20%を教育基金としてファンドをネパールの銀行に預金し設定した。今回25校から建設の申請がでていた。その半分は既に直接視察し、現在の校舎の損傷具合、建設の緊急な必要性等を調べてある。出席者から、学校の選択基準を質問してきたものがあった。今回、自分の学校が選択されなかったことで納得がいかなかったのであろう。次年度は50校ぐらいからの申込になるだろうと予想される。

ネパールの学校建設では1教室建設するのも10教室するのも費用は単純に比例する。固定費用が殆んどないのである。そこで、なるべく公平に多くの学校に支援できないものかと考え、こんなアイデアが浮かんだ。

2教室単位で広く多くの学校に建設してゆく。必要に応じて各校一巡後、2教室ずつ増設してゆく。12教室、約数十万円ぐらいの予算で、支援者の指名プロジェクトとする。

寄贈者の名前を冠にして、その名を記念のプレートにして掲示し残す。

例えば

個人 個人が喜寿・米寿の記念に寄贈するのも面白いのではないかと考えた。

KATHMANDU PRYMARY SCHOOL ROOMS

KOIZUMI UNESCO   MEMORIAL

DONATED BY JUNICHIROU KOIZUMI AND

 SAITAMA UNESCO ASSOCIATION  IN SAITAMA JAPAN IN 2002

カトマンズ小学校 小泉・ユネスコ 記念教室

小泉純一郎・さいたまユネスコ協会 寄贈 埼玉県 日本 2002

 

団体 会社の創立記念事業に、またロータリークラブの年度の記念事業に寄贈する。

KATHMANDU PRYMARY SCHOOL ROOMS

OMIYA ROTARY CLUB UNESCO  MEMORIAL

DONATED BY OMIYA ROTARY CLUB CHAIRMAN MASUO AKASHIBA  AND  SAITAMA UNESCO ASSOCIATION IN SAITAMA JPAN  IN  2002

カトマンズ小学校 大宮ロータリークラブ・ユネスコ 記念教室

大宮ロータリークラブ会長 赤芝 益男・さいたまユネスコ協会 寄贈 

埼玉県 日本 2002

如何なものだろうか。ご意見を聞かせて頂きたい。

教育基金 97万円を現在5.5%にて運用中である。1年後その利子で「成人女性の識字教育(読み書き計算)クラス」を新築した学校に新設したいと計画している。立派な建物はできた訳であるから、放課後、週に三日、2時間、1年間。ソシアルワーカーに半分ボランティアで教師をしてもらい給与と学用品で、識字教室は運営できる。農家の成人女性の殆んどが非識字者だ。農家の女性は家事労働ができれば十分という女性への差別意識がはっきりと出ている。

里親就学プロジェクト 12268

パルパ県の学校は10233名。内4校(ガナパティ高等中学校、マツリブーミー高等中学校、ソンブ高等中学校、ウッドブッタ高等中学校)は昨年からの継続である。新規の学校(チャンドロダヤ初等中学校、クリシティナデビ高等中学校、ビレンドラ小学校、ジャナヒット高等中学校、ランバ高等中学校、バヌバクタ高等中学校)には里親と里子縁組リストを渡し、他の参加者に、今年度の奨学プログラム[Saitama UNESCO Foster Parents Scholarship Program]規約書と次年度の申込み書を配布し説明をする。私はその最後に、こう、強調した。

「このプログラムを維持発展させてゆく最も大事な事はこの規約のルールを守ることです。あなた方がルールを守らないと、さいたまユネスコ協会は日本の里親と交わした約束を守ることができません。それは里親の協会への「キャンセル」に繋がります。

ですから、協会としては、ルールを守らない学校は残念ですが「キャンセル」せざるをえないのです。

昨年から始まった4校は学年末(6月)の大事なルールを守りませんでした。里子の手紙と写真は勿論の事、その学年末での各里子への支出帳簿、成績、出席率、学校の出納長の提出です。8月初旬まで待って督促状を出しました。9月になって書留で、(このルールは守られていました)手紙や各報告書が送られてきましたが不足している部分もありました。

定期的な手紙・写真・報告書の送付は1月と6月です。その末日までの消印と書留で指定の書類を洩れなく送付するのが基本的なルールです。次回、守れなかった学校は残念ながら「キャンセル」せざるをえません。

改めて言います。何故なら、協会が里親から「キャンセル」されるからです。解って貰えましたでしょうか ?

参加者一同、納得していた。が、果たして次回の結果は如何?

その後10校に、里子の写真を撮る為のカメラが無く、不自由しているとのことだったのでわが協会会員より募り、寄付して頂いたものを贈呈する。最後に小切手を、学校名を受取人にしてその場でサインして手渡す。                 ホテル泊

1014

ランプールを立ち、徒歩2時間、かねてから学校改築の要請をされていたサラサティ高等中学校(生徒数300人)を訪問視察。確かに大分痛んでいた。

学校建設と里親の両プロジェジェクトのチャンドロダヤ校を訪問。全校生徒と近隣の父兄、住民が集り、学校建設と里子の発表をして、25人の里子の紹介をビデオにおさめる。そのうちの数人の里親から手紙があり、翻訳文を読み上げ、写真を披露する。里子に「この人が君の里親だよ。看護婦の仕事をしている人だ。」と写真を見せながら紹介すると、照れながら、なんとも驚いたような顔をしていた。周りの人たちも手紙の内容を食い入るように聞いていた。また、同席していた大人たちは思いもかけなかった漢字の手紙、カラフルな封筒、翻訳文、写真のセットに驚きを隠さなかった。正に、草の根の心の通った国際交流の場であった。                 クリスティナデビ校の前校長宅 泊

1015

早朝、ランプール会場で会ったクリスティナデビ校の校長と近隣の里子7人が前校長宅に、お礼の挨拶で訪ねてきた。今日は国民的お祭りが始まり、学校が休みで全校生徒を前にしての改めての挨拶、贈呈式ができなかった。

徒歩3時間、寺子屋建設希望のブジャ小学校(設立1970年・生徒数180人)を訪問。5教室と職員室の要請。校舎の損傷具合を調査する。建替えの必要性を感じる。

もう一山越えて2時間、ブリハスパティ小学校(199770人)を訪問。ここの校舎は、土壁造り小さな2教室と木の葉葺きの壁面のない日除けだけの造りの1教室だった。これはあまりに酷い。冬は5学年70人が狭い2教室で相部屋になる。次年度、最優先の学校になるだろう。                       ガナパティ校教師宅 泊。 

1016

徒歩にて、4時間。今年度、寺子屋建設寄贈先のゲザのシッタルダ初等中学校を訪問。生徒数が増え老朽化した5教室を広めの3教室に建替える。お祭りが始まり、学校は休みだが、村の父兄、生徒200人ぐらいが集り改めて発表をして、学校建設委員会、建築設計士と一緒に工事の打ち合わせをする。             シッタルダ校教師宅 泊。

1017

垣見さんの小屋あるドリマラ村へ向かう。途中、今年の2月に里親プロジェクト用のポスターの子供を撮った場所を通る。そこで顔見知りの人にポスターを託せば彼らの手元に届くであろうと考えて、彼らにプレゼントするために2枚用意した。現地の茶店でミルクティーを飲みながらそこの主人に尋ねているところに、彼等二人がひょっこり現れた。それには私も驚いた。まさか直接手渡せるとは思いも寄らなかったからだ。彼らは、はにかみながら、恥ずかしそうに、私はこの再会を手を取り合って喜んだ。聞くところによると、二人は兄弟で、その山のふもとに住でいるとのことだった。名前は、デブ バハドゥール タパ 弟がケマル。ビルコットのマナカムナ小学校に通っているとのこと。彼らにポスターを各自1枚と使用済みの色鮮やかなテレホンカード何枚かをプレゼントした。きっと、彼らの生涯の宝物になるだろう。           ドリマラ村 ゲストハウス 泊

1018

学校建替え希望の、徒歩往復4時間、アルキダーラのコモラ小学校を訪問する。お祭りで休み。連絡のしようがなかったので誰もいなかったが、校舎の概要を知っておく必要があった。

1019日 垣見さんは往復徒歩6時間の村での結婚式に招待されており私も誘われたがこの日は休養日として、地酒のロキシーを昼間から飲みながら視察の記録の整理をする。夜は満天の星空に、蛍が舞い飛び交う光景が心地よい酔いとともに、この10日間の疲れを癒してくれる。そこで自作を一句、「満天の 流るる星は 蛍かな」 お粗末!

ドリマラ村 ゲストハウス 泊

1020

8時 ドリマラ村からに不定期に出るようになったジープで2時間、以前は4時間歩いたアレバンジャンの町へ。そこでポカラ来たバスに乗り換え終点ブトワールへ2時間、そこでタクシーに乗り換えバイワラ空港へ14時着。空路カトマンズ着が18時。1日掛りである。                           バクタプル ホテル泊

1021

お祭りで学校は休みだが事前に連絡を取って準備をして貰っているライタプルのビムセン高等中学校を里子への贈呈式に訪問する。予定の11時に到着、しかし、誰も集っていない。校長宅へ向かう。やおら、これから集めるとのこと。休みだから全員集めるのは難しいが近隣の生徒、父兄、村人を参集する予定だった筈だ。30分ぐらいして、十数人。待っている間に怒りがこみ上げてきた。職員室に貼られた世界地図の一番右端、極東の日本を指して「私はここから来たんだ。」語気荒く言い放った。この校長は支援金を受けることに全く緊張感がない。申し込めば簡単に手にはいるとで思い込んでいるような感じである。一昨年日本の国際ボランティア貯金の支援で校舎を建替えて貰ったばかりである。たまたまラッキーが続いているのである。それを誤解している。日本の里親からは手紙を数通預かってきている。それを校長や郡長に見せた。日本の立派な家屋の前で、正装した家族の記念写真が添えられているものもあった。彼らにして見れば、想像だにしていなかった手紙と写真、一同、ユネスコはここまでしてくれていたのかとの驚きの顔が、そしてそれに引き換え我々は.........苦渋の顔が彼らに走った。

このまま惰性で支援金を渡す訳にはいかなかった。ネパールでは、特に首都カトマンズでは、日本のNGO(非政府組織)の支援の甘さが問題になっている。支援金を渡す事で自己満足していまい、その後の使途の公正さ、効果等にあまり興味を示さないという。

以前、ネパ−ルの日本大使館の書記官が少々極端にネパールに対する援助を象徴的に捕らえて、言い放った言葉を思い出された。「ネパールを本当に良くしようと思ったら、一切の支援をしないことですよ。」

支援金は使い方を誤れば却って彼らに悪影響を及ぼす。仇になる場合もありえる。自立心を無くさせてしまう場合もある。

一方、海外からの多くの援助・善意を食い物にする現地ネパールの悪徳NGOが横行する。

カトマンズには4万とも5万とも言われるNGOが存在する。その殆んどがNGOとは名ばかりの援助金を目当てのビジネスだ。大使館員に言わせれば、まともなものは1%にも満たないとのことだ

その意味するところは、あまりにも援助馴れしすぎてきた。悪く言えば援助ずれしてきて、援助されて当然、こうじて、金持ちの国・人たちは援助すべきだというような気持ちになってきた。そして、目ざとく援助の監督管理、その後のフォローが甘いと知ると、それに乗じた営利まがいの輩が蜜に群がるようになって増えてきたと言う訳である。

結果、他国からの援助に対する安易な依存心が高くなってしまったということだ。

今、十数人の教職員と里子とその父兄が集って来ている。25組の縁組表と数通の里親からの手紙と写真、カメラ、お金、全部準備できている。このプログラムの規約を再確認して手渡せばセレモニーは終了だ。しかし、ここでキャンセルすれば、その後、25人の里親にこのキャンセルの事の説明、事務処理……..云々。面倒臭い思いがよぎる。

しかし、書記官の言葉を思い起こした。何のための、誰のための支援活動か。面倒臭いというその安易な気持ちが甘い援助となり、NGOビジネスを生んでいる温床となっているのだ。

「現在数十校、数百人からの里子希望者が、真摯な学校が待機している。ビムセン校の里子たちに罪は無く申し訳ないが取りあえず白紙に戻して、今回のことを良く考え肝に銘じて貰ってもう一度改めて申込みをして貰おう。」

決心した。このキャンセルの意思表示は今後、他の学校にも良い形で反映するであろう。

バクタプル ホテル泊

1022

カトマンズの日本大使館へ行く。銀行に「さいたまユネスコ協会」のNPO(非営利活動法人)としての当座開設の為の書類を発行して貰いに行く。昨年10月から、今年の2月と今回と3度にわたってネパールの銀行に申請しているのだがなんだかんだと色々な条件を出し、最後に大使館が発行する証明書を要求してきた。その旨、大使館員に話すと、銀行の自己責任回避だという。大使館のお墨付きを取る事によって自らのリスクを大使館に押し付けることになるというのである。

私は日本の法務局発行の「特定非営利活動法人さいたまユネスコ協会」の謄本を持参した。

この内容の翻訳証明を出してもらえば良いのだが、日本大使館も銀行同様責任を回避したいのか発行をしぶる。ネパールでは、銀行の本店と支店で話が違う、同じ支店でも担当者が違うとまた、話が違い、通じない。行く先々でそれぞれが違う事を言い、違う要求をする。私は単純に日本的感覚で、援助しにきている組織を何故ここまでないがしろにするのか理解できない。まるで故意に嫌がらせをしているのかと思うと館員に話せば、その答えは「遠回しに袖の下を要求している」のだと様々な事例を出して説明してくれた。袖の下を使って援助するなどとはもっての外、主客転倒だ。意地でも出来かねる。

そして、館員は日本政府のメインバンクだと言い、他の銀行をあくまでも紹介ではなく推奨してくれた。そして、それでも、翻訳証明が必要ならば謄本の正確な翻訳文を持参すればそれを証明するものを発行すると言う事になった。 

バクタプル ホテル泊

1023

宿泊先ホテル近くのバルチェタン小学校を里親プロジェクトで訪問する。この学校もお祭りで休みであるが、事前の連絡で準備されていた。チャンドロダヤ校同様里子の紹介ビデオを録画し数名の里親からの手紙と写真を紹介した。これには、子供たち10名はただ何がなにやら、里親の存在もあまりよく理解できずに戸惑うばかりであったが、参加した教職員は勿論のこと、県の議員、役所の教育担当者らは感動していた。

手紙を書いてくれた里親の一人、塚本桂子さんは今回参加できないが、別途個人で11月半ばこの学校を訪問する予定になっている事を発表した。(訪問記参照 次頁)

23日 2345分  カトマンズ発  関西空港行

24日 1330分  関西空港発   羽田空港行

 16時     大宮 帰宅

 

改めてネパールの多くの学校・人たちに期待されていること、感謝されていること、大きな役割を果たしていることを実感する。

特に印象深いのは、里親からの里子への手紙と写真の手渡しと、その手紙を読上げての紹介場面である。参加者全員の驚きと感動、これこそが、我が「さいたまユネスコ」の真骨頂である。

 

最後に現地協力者である、既にネパール、パルパ県ドリマラ村に移り住んで8年目の垣見一雅さん、ゴパルさん、ロスさんに感謝する。垣見さんたちの貢献なくして我がプロジェクトは考えられない。

 

20025月の会員総会で報告ビデオの上映を致します。


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