2003年ネパール学校

訪問 日程

 

 

 

2003/11/19〜12/10

 

 

 

 

 

 

 

 

月 日

訪問先

奨学金寄贈式

開校式

学校寄贈式

参加学校数

11月19日

関西空港よりカトマンズ

 

 

 

 

11月20日

#27    デビ高等中学校

 *

*

 

2

 

#27    デビ高等中学校 里子宅

 

 

 

 

 

#28 ビムセン初等中学校 

 

 

 

1

11月21日

#09   バルチェタン小学校

*

 

 

1

 

#05   アラニコ高等中学校

 *

*

 

6

 

05   アラニコ高等中学校里子宅

 

 

 

 

11月22日

トリバァン空港よりバイラワ空港 

 

 

 

11月23日

   陸路 移動日 

 

 

 

 

11月24日

06   チャンドロダヤ初等中学校

 *

 *

 

5

 

29 ナワドゥルガ初等中学校

 *

 

 *

7

11月25日

30 ブリパスパティ小学校

 *

 

 *

9

 

10   ジャナシャンティ小学校

 *

 

 *

2

11月26日

16   チャンデシワリ小学校

 *

 *

 

5

11月27日

  ドリマラ村保育園視察

 

 

 

 

11月28日

03   ソンブ高等中学校 里子宅

 

 

 

 

11月29日

03   ソンブ高等中学校 里子宅

 

 

 

 

11月30日

19   カマラ マイダン小学校

 *

 

 *

1

12月1日

17   カマラデビ小学校

 *

 *

 

5

12月2日

   ドリマラ村内視察

 

 

 

 

12月3日

   空路 移動日

 

 

 

 

12月4日

  カトマンズ市内ビデオ撮影

 

 

 

 

12月5日

  現地協力NGO事務所・銀行

 

 

 

 

12月6日

09   バルチェタン小学校里子宅

 

 

 

 

12月7日

  ダディコット村内視察

 

 

 

 

12月8日

   休養

 

 

 

 

12月9日

ホテル 奨学プログラム説明会

 

 

 

10

12月10日

 カトマンズより 関西空港へ

 

 

 

 

 計

 

0校

5校

4校

54校

 

 

 

ネパール訪問 1世紀分の祝賀式

                          会長 本多 隆

 

今回の参加者は国際ロータリー第2570地区(埼玉県西南部)国際奉仕委員会委員長以下4名と当協会の事務局の橋本女史と私の6人になる。私のネパール訪問は今回で1993年から数えて15回目になる。が、それでもいつも新たな感動にめぐり合える。

1123日、チャンドロダヤ初等中学校の開校式。タンセンの銀行に10時開店に飛び込み、小切手帳の発行を待つこと1時間、9時出発予定が11時過ぎになり2時間遅れで式に向かう。日本の銀行と同様に事務がすすむと思い込んでしまったのが間違いの元であった。途中、1台の車しか通れない山道でトラックがタイヤをはずして通りを占拠していた。パンクかなと思い、そのつもりで待っていてもなかなか終わらない。そのうち通行止めを余儀なくされた人たちが、その廻りに集まり、協力して車を広い場所に移動させた。更に2時間遅れた。

農村では学校は村一番の大きな施設であり、開校式は村の行事としては四、五十年に一度のイベントになる。みんな、首を長くして待っているだろうな、思いながら、車をとばす。

日本ならば、取り合えず予定時間に遅れそうなところでまず電話を一本かけるところだが、電気も無ければ電話も勿論無いので連絡のつけようが無い。

夕方4時頃、校長がとうとう待ちきれずに、オートバイで途中の村まで迎えに来ていた。校長は一張羅の自前のジャケットか、この日のために借りてきたのか、この辺では滅多に見かけないよそ行きの格好をしている。いつも普段着しか見ていないので今日は如何に意気込んでいるかのかが傍から見ていてもわかる。

これからまだ小1時間は掛かる。しかし、校長は村人が待っているからこれから急いで向かって、式典をやろうと言う(5時)。

村に着いたときは既に日が暮れていた(6時半)。それでも大半の人が待ってくれていた。今日は、この村にとって、半世紀に1度の大行事なのだ。日が落ちてしまった村は自分の足元も見えないほどの真っ暗闇、他の村から借りてきた携帯用の照明に明かりを灯し、新校舎を背に校長はまだ未練たっぷりであったが、ようやく明朝開校式をすることを決定し、集まってくれていた人たちに発表した。(7時)その晩は教師の家で他校の校長先生と共に歓迎の夕飯をご馳走になり、ホームステイ。

改めて、学校建設に対しての彼等の感激、喜びようが伝わってきた。翌日はその半世紀に1度の開校式が2つ重なり、1世紀分のお祝いをすることになってしまった。

 

 

 

 

里子変更を通して見たネパールの実状

事務局 橋本 康代

 

ネパールでの支援活動をしていると、こんなはずではなかったという事が、いくつかあります。そのなかで、里親にもご迷惑をおかけし、当協会としても一番困った事は、里子の変更に係ることです。

<里子変更の問題点>

     変更の数があまりにも多い

    里子変更の通知を受けた里親数  385人中、124人

     時期を問わず、年中里子の変更がある。

     里子変更の通知が、指定の期間内に当協会に来ないことがある。

     変更に係る提出書類が1回で送付されてこない事がある。

<里親からの、里子変更についての質問・意見等>

     折角奨学金をもらっているのに、なぜ学校を辞めてしまうのか

     初めに面倒を見た里子でなく、別の里子に替わるなら(卒業理由は除く)、里親は続けたくない。

     成績が悪くて、進級できなくても、その里子をずっと応援してあげたいので、里子を変えないでほしい。

     成績不良ではずされるような子は、最初から選ばないでほしい。勉強するために奨学支援しているのだから、勉学の意欲のある子を里子にしてほしい。

     里子が変わったらすぐに連絡してほしい。

     里親承諾も得ず、勝手に里子を変えないでほしい。

(縁組時に、里子変更の可能性はお伝えしてあるのですが・・・・)

その他の里親からの連絡等を含めた意見から、次の3つの点に関して十分理解して頂く必要性を感じました。

@<里子変更のシステム>

     里子を変更する時の判断基準

  出席率が80%以上で、進級できる者を、里子として継続する。(契約書 記載事項)

     誰が里子の変更を決めるのか?

   各学校の里親制度運営委員会が、審議の上、決定します。この運営委員会は、里親制度が、公正かつ円滑に進められるために作られたもので、教職員と村の自治委員で構成されています。

     新里子の選抜・選考基準

   概ね、月収約3000円程度の貧困ライン上の児童

     里子変更の届出

   里子変更があった場合、現地の学校は一ヶ月以内に所定の書類を送付の上、当協会に届出る約束になっています。

 

A<奨学支援に対する学校側の考え方>

 支援を受けている学校側としては、当協会との契約条項に反するような事をして、支援を打ち切られるような事をしてはいけない。また、皆様の善意そのものである奨学支援金を無駄にしてはいけないから、有意義に使っていこう。こうした考えが強いので、契約上の基準にそぐわない里子は、はずしているわけです。

B<里子変更に係る支援先の実状>

     出席率80%以下による里子変更

当協会では支援しているのはほとんどが貧しい地域のため、子供は大事な労働力となっています。普段でも食べるだけで精一杯ですから、ひとたび家庭内に不具合が生じると、なおさら生きていくことが最優先となります。その為、子供が学校に行きたがっているとわかっていても、通学させられないのです。また、両親が教育を受けていない為に、子供の教育への関心が薄く(全くない場合もある)、登校させてもらえなくなる事もあります。

調べてみると、里子の平均出席率が54.9%という学校があるのにはびっくりしました。こうなると、当協会で、里子継続条件の出席率を80%以上としたのは、どうも日本的感覚だったようです。

     成績不良による里子の変更

ネパールでは、政府の進級試験(有料)に合格しなければ次の学年に進めません。義務教育はないので、日本のように成績とは無関係に誰もが一律に進級できるのとは事情が違います。

進級できず留年した子は、成績不良として里子からはずされることになるのです。勉強の意欲があるにもかかわらず試験の合格点にわずかに足りず留年した場合、日本国内なら奨学金打ち切りの宣告をしても妥当でしょうが、ネパールでの適用は、その実情からしてどうもそぐわない気がします。

・ 引越しによる里子変更

日本では家族全員で引越すと言う事は一大事ですが、支援先の貧しい家庭ではいとも簡単に行われています。

なぜなら、貧しくて土地を所有していない者は、働くのに都合のよい畑の近くへと移り住んで行くからです。食べることで精一杯の人にとっては当然のことなのです。そして、貧しいために家は粗末な作りなので、何の未練もない上、家財道具も少ない(あるいはほとんどない)ために、あっという間に引越しできるわけです。

     結婚による里子の変更

現地の女の子は、早ければ14才で結婚します。里子のなかには卒業を待たずして結婚のため退学した子は、もう何人もいます。支援地域の女性は、67人の子供を育てるのがごく普通です。そのうえ、平均寿命も短いのですから、当然早く結婚することになるわけです。

また、自分の家族の人数が多いため、一人でも早く結婚して、家の経済状況を助けることに繋げているのだと思います。

     不登校による里子変更

   不登校の主な理由は次の3つです。

   1. 家庭の事情で通学できなくなった。

    2. 子供自身が通学する気がなくなった。

    3. 親自身が子供の教育への関心が薄い為。

      1.による理由がほとんどで、たまに3による校長先生からのお詫びの手紙を頂くこともあります。

.の例  父親がインドに出稼ぎに行って不在の間、母親死亡の為、長男として幼い兄弟(数人)の面倒をみなければならないので、不登校となった。

ネパールでは、日本と違って、国の補助はほんの少ししかありません。入学金・進級試験科・教科書代(学年により異なる)・制服代までもが自己負担です。その日食べるのに精一杯の貧しい人達には、そのための現金などの余裕はなく、当然子供を学校へ行かせるということはとても大変なことなのです。

     転校による里子変更

支援していたご自分の里子を、その転校先でも続けて支援したいと思う方は多くいらっしゃると思います。当協会としても、心情的には同じです。

 しかし、奨学支援は学校単位で契約され、各学校での里子人数には制限があるため、転校した場合は、そこで奨学支援が打ち切られるのです。

     卒業による里子変更

ネパールでは義務教育は一切ないので、小学校だけ卒業する子も多くいます。卒業後に進学する子は僅かながら増えてはいるようですが、まだまだ一部の子に限られています。

里子が卒業しますと、その時点で里子変更となり、新しい里子を支援して頂くことになります。但し、新しい里子の選考にあたり、縁組時に希望された男女の性別までは、残念ながら現地ネパールでは配慮しかねるのが実状です。(他の理由による里子変更の時も同様)

また、卒業時点で、改めて里親へのお礼の手紙を書くよう、協会として指導しています。

新しい里子の決定

新しい里子は里親制度運営委員会で審議され決定されます。奨学支援を希望するたくさんの子供の中から選抜しますが、学校から徒歩で2時間の所に住んでいる子がいたり、いろいろな方角に住んでいたりする為、調査決定するのは一苦労のようです。ですから、里子が変更するという通知が協会に届いても、新しい里子はまだ決まっていないという事もあるわけです。

     現地からの里子変更通知の遅れ

現地から日本への書類送付には、最短で2週間必要です。支援校25校のうち21校は、パルパ県という山間部にありあます。その最奥の学校などは、首都カトマンズから<飛行機>+<ジープ>+<徒歩>で2日かかる所にあります。

日本のように毎日郵便物の集荷があるわけでもないうえに、政情不安による郵便事業のストップでもあると、当協会に変更通知が届くまでに1ヶ月余りかかることがあります。                                                                    

<協会側の改善点>

こうして、改めて実情を見てみますと、ネパールは日本とは違うとわかっていながら、日本的な物の見方、考え方で支援していた部分があることに気付きました。

 そこで、里子変更の問題点、特にその数があまりにも多いこと、これを解決して

くために次の2点を改善しました。

@里子選抜基準の見直し

貧困家庭の児童であるだけでなく、次のことも条件としました。  

親が子供の教育に理解がある事

子ども自身が、勉強に意欲的である事

A里子継続条件の見直し

従来の出席率「出席率80%以上で進級できる者」というのは、基本的な条件として次の点を加味しました。基本条件を満たしていなくても、やむを得ない事情があり子供に勉強の意欲があるならば、校長及び村の自治委員会の判断により里子継続可能とする。

この2つの見直し点をふまえて現地の校長先生等に、里子変更に係る指導をしてまいりました。その甲斐あって、里子変更は激減しました。また25校中、里子変更のあった学校は僅か5校(従来は3分の2以上)にとどまりました。

 

***** 奨学支援は、心の贈り物 ***** 

 里子変更が減ったことにより、1人でも多くの子供がより長く教育支援を受けられるようになり、里親と里子がお互いにより深いつながりを持って頂けることを願うばかりです。

 また、たとえ短い間しか学校に行けなかった里子にしても、里親の方々を通じて知った善意や人としての暖かさ・やさしさというものは、その子の人生にとって大きな宝物になることと思います。そして、里親への感謝の気持ちが、やがては自分以外の人へのおもいやりとなり大きく広がっていくことでしょう。人の一生は、たったひとりの人との出会いによって大きく変わることがありますが、まさに里子にとって、里親はそのひとりになっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

初めてのネパール学校訪問

国際ロータリー第2570地区

 国際奉仕委員長 平岡達也

 

国際ロータリー第2570地区(埼玉西南部)国際奉仕委員会では、従来から識字率向上運動として「ユネスコ世界寺子屋運動」を支援していますが、この度その実情を是非この目で見たいと希望する委員が4名集まりました。生活習慣の違いや仕事の都合、旅費の自己負担等を考えるとなかなか行けないものですが、思い切って「さいたまユネスコ協会」の本多会長に同行して、1119日から1週間、委員4人でネパールを訪問しました。

日本からネパールまでは約9時間、時差は3時間15分です。日本時間の時計を90度廻して3時を12時として見れば現地時間となります。

ネパールといえばヒマラヤです。首都カトマンズは標高が約1300メートルのところにありますが、南に位置するため11月でも日中は半袖でも過ごせます。

ネパールの学校は小学校が5年、初等中学校が3年、高等中学校が2年の10年制となっています。今回私たちが訪れた学校は、第2570地区として建設資金を寄贈したデビ高等中学校とアラニコ高等中学校(同地区内所沢西ロータリー寄贈)含め4校です。

デビ高等中学校はカトマンズ近郊とはいえ、市街をぬけ山の悪路を1時間ほど4輪駆動の車に揺られて行った所にありました。村にはまだ電気が無く、学校もレンガを積み上げただけで窓も小さく低いトタン屋根で出来ています。山間の為、校庭はほんの僅かしかありません。多分少しでも土地があれば農地として使ってしまうからだと思います。

 私たちは生徒、先生、父兄の皆さんに大歓迎で迎えられました。額にはティカ(赤い印)首には前が見えなくなるほどの花の首飾り、次々と手渡される花束、そして人々の満面の笑顔。彼らの溢れんばかりの感謝の気持ちに、胸にこみ上げる熱いものを感じました。

 校舎前の僅かな敷地に全員が集まり、先ず新教室のテープカット、冠名記念プレートの除幕式が行われました。私たち委員が折り紙を折ってみせたり、竹とんぼを飛ばしたりすると、子供はもちろん大人達までもが大喜びでした。25人の里子達には持参したカラーボールペン等のおみやげを渡しました。皆の前で本多会長から校長に学校建設の資金、里子への奨学金が小切手で渡されると、ひときわ盛大な拍手が湧きあがりました。

里子への支援金は一人1800ルピーで、村の自治委員と学校の教職員によって管理運営されています。

セレモニーの後、本多会長は先生方と里親制度の打ち合わせです。里子は現在25校で415名支援しています。先生から報告書を毎年提出してもらうのですが、書き方を細かく説明してもなかなか守ってもらえません。協会への提出書類は契約書をはじめ、支援金の会計、里子の成績、出席日数、名簿、変更に関する書類、更に里親への手紙等かなりあるのには驚きました。また、協会がそれらを細かくチェックしているのには感心してしまいました。学校をなるべく休まないで勉強に意欲ある子を推薦すること、書類はきちんと提出すること、これらをきちんと守ってくれれば里子を増やすと伝えていました。

全てが終わった後、近くの里子の家で食事をごちそうになりました。大きな皿に細長いパラパラのご飯が山のように盛られ、カレーと野菜の煮物、漬物が添えられています。右手の3本指で食べるのは皆初体験です。貧しい家にとって、これだけのものを準備するのはとても大変なことですが、村人にとって客を迎えることはとても名誉なことだそうです。質素な食事でも、自分にできる精一杯のもてなしをしようとする温かさにあふれていました。

翌日訪問したアラニコ高等中学校には偶然にも私の支援している里子がおり、感激の対面をすることが出来ました。

今回私たちが訪れた学校はいずれもカトマンズから1時間程で行ける所でしたが、それでも悪路に悩まされ大変な思いをしました。しかし本多会長さんたちはカトマンズから遠く離れた、車も入らない、電気も無い山奥まで寝袋持参で出かけて行くのですから頭が下がります。そして毎年、毎年現地を訪れ自らチェックをしていること、これは、なかなかまねのできない何よりも素晴らしいことだと思います。

私たち国際ロータリー第2570地区国際奉仕委員会が集めた書き損じハガキやテレフォンカードが、こうしてネパールの学校建設の資金として役立ち、また僅かなお金で学校にも通えない子供たちを救うことが出来るという事実をこの目で確かめ、これからもより一層の努力をしてゆきたいと思っています。


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