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【お知らせ】世界遺産リストに登録された「富士山」について、座談会を行いました

座談会 富士は世界一の山
6月22日(土)、カンボジアのプノンペンで開かれた世界遺産委員会で、富士山が世界遺産に登録されました。これを受けて、富士山に関する活動を継続して きた3ユネスコ協会と、浮世絵を通じて富士山を世界にアピールする牧野日ユ協連評議員にお集まりいただき、座談会を行いました。

〔出席者〕*プロフィールは文末をご覧ください。
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(写真左から)
忍野ユネスコ協会:長田五月会長
甲府ユネスコ協会:石岡博実副会長
浜松ユネスコ協会:常任理事山内登志弘
日本ユネスコ協会連盟評議員:牧野健太郎
[司会]
日本ユネスコ協会連盟事務局:寺尾明人

寺尾: 皆さま、今日はお集まりいただきありがとうございます。今年の世界遺産委員会で、富士山が世界遺産に登録されました。おめでとうございます。今日は、ユネスコ会員として登録前から富士山と関わってこられた方々にお越しいただきました。まず、登録について率直な感想をお願いします。

長田: 私の住んでいる「忍野八海」が、世界遺産「富士山」の構成資産の一つとなりました。村民一体となっていままで取り組んできたことが認められて、とても喜んでおります。

牧野: 子どものころから富士山を見上げてきた人間として、今回の世界遺産は格別に素晴らしいことだと思います。

石岡: 我々は一昨年から富士山を世界遺産に、ということを目指した活動をしてきました。昨年はパリのUNESCO本部を表敬訪問しました。そうした努力が実ったかな、という嬉しい思いでいっぱいです。

山内: 科学教室で子どもたちを毎年連れて行っている身近な富士山が、このような形で世界の注目を浴びるのは、大変喜ばしいことです。ただ、いままで身近だった存在が、観光地化が進むことによって少し遠いところにいってしまうかも、というような心配もあります。

寺尾: ありがとうございます。今回、富士山は自然遺産ではなく文化遺産として登録されました。それは、信仰・景観の美しさ・文化芸術に与えた影響などがトータルに評価されたからです。そういったことも含めて、これまでの活動をご紹介いただきたいと思います。

山内: 浜松ユネスコ協会では、もう20数年も学校委員会という組織で、小学生を対象とした科学教室を行っています。浜松は富士山からだいぶ離れているので、直接の関わりは薄いのですが、年間8、9回はある科学教室の中で、富士山に子どもたちを連れて自然観察に行きます。
ところで、UNESCOの「S」はScience(科学)の「S」ですが、ユネスコ活動でなぜ科学教室なのか、ということを少しお話しさせてください。科学教室は1958年にスタートし、50年以上の歴史があります。途中、一時中断しましたが、1987年に再スタートしました。私はその2年後から関わっています。当初、科学教室は、静岡大学の工学部で活動していました。その頃、工学部の山口文太郎先生が、ユネスコでなぜ科学を扱わなければならないのか、ということを会報「ユネスコ浜松」(1966年6月25日発行)に寄稿されていますので、その一節を簡単に紹介します。
「科学技術自体は何ら意志を持っていない。それがどのように使われるべきか、という問題は科学技術の中からは出てこない。何が大切で何が役立つのかは、人間が判断する力に頼るしかない。そして、この判断の力は神の知恵といってもいい。しかし、科学技術を発展させた人間が、原子力に例えられるような「神の力」を手にしたとき、どのように扱うべきか。神の知恵に従う必要があるのではないか。人間の争いをなくして、世界の平和を目指す中で、目的を持って科学を使っていく。そういう心を育てていかなければいけない。」
私はこの文章を読んだとき、なるほどと強く納得しました。現在も、こういった心を子どもたちに少しでも育んでいきたいと思い、科学教室を行っています。その中で、微生物のミクロの世界に目を向ける一方で、マクロなスケールで日本でいちばん大きい山、富士山にも目を向け、体験学習の場として毎年プログラムで取り上げています。この活動は子どもたちだけでなく保護者も一緒に参加できます。毎年、参加者からは感動の声が多数寄せられています。これからもぜひ、子どもたちに、平和への思いや、ふるさとや国の誇りになるものを大切にする心、そしてそれらを未来に残していこうという心を育てていきたいと思っています。

寺尾: 子どもたちは具体的に、富士山をどう「科学」しているのですか。

山内: 富士山に行くときのテーマは、気象や気圧、地質など多岐にわたっています。浜松から富士山へは天竜川、大井川、安倍川を渡って行くのですが、それぞれの川特有の岩石について事前に学習し、富士山からの距離で地質がどう変化しているかを学びます。その上で、富士山では噴火で出てきた岩石や溶岩を観察します。また登山しながら、植物の分布が変化していくのも観察します。それから、ペットボトルやポテトチップスの袋を持参すると、気圧によって膨らんだりへこんだりします。そうやって、気圧の変化を体験します。また、毎年、宝永火口のところまで行ってお昼を食べるのですが、そこでお湯を沸かして、気圧によって沸点が下がることを実感し、その理由を子どもたちと一緒に考えます。

寺尾: 楽しそうですね。それでは次に、忍野ユネスコ協会の長田会長。忍野八海は世界遺産の構成資産の一つとなったわけですが、清掃活動をはじめとして、いろいろな環境保全活動をやっていらっしゃいますね。

長田:
 忍野ユネスコ協会は1995年に設立されました。まだ歴史は浅いのですが、当初から村内の清掃と、世界寺子屋運動の支援との2本立てで頑張っております。2004年に中部東ブロック研究会が忍野であり、記念事業の一環として、富士山の自然と文化をテーマに分科会と話し合いをしました。そのとき「私のまちのたからもの」絵画展を開いたところ、集まった絵の3分の2以上が富士山に関する絵でした。
また、青少年事業として、2009年に忍野ユネスコ子どもクラブを立ち上げ、子どもたちと一緒に忍野八海の清掃を始めました。今年で5年目になります。忍野八海そのものは天然記念物なので、勝手に清掃などできないため、教育委員会との共催で行っています。子どもクラブではほかにも畑で農作物をつくったり、草取りをしたり、収穫をしたりしますが、作業の前には必ずユネスコ精神を学びます。また星空、ホタル、ムササビの観察などを通して、子どもたち自身が素晴らしい自然環境を残していく大切さを再認識したり実感したりしました。ここ2年間は、村内を子どもたちと一緒に歩いて、富士山の湧き水を確認したり、貴重な植物や文化財を見て回ったりして、これらの財産を守り伝えていこうとお互いに確認しあいました。
私は富山県からお嫁に来たので、毎日富士山に手を合わせて「ウワー、ステキだね。きれいだね」という思いで過ごしていますが、もともと忍野に住んでいる方は、あまり感謝の意識がないようです。世界遺産に決まって、ずいぶんお客さまが増えていますが、それがいい方向に結びつくのか、不安な点もあったり、喜んだり、複雑な気持ちですね。忍野から見た富士山は、それはもう上から下まで、言葉にはならないくらい大きくて素晴らしい。皆さんもぜひ一度、忍野へいらしてください。

寺尾:
 「私のまちのたからもの」絵画展の、忍野ユネスコ協会の優秀賞作品を見ていると、富士山かホタルか、という感じです。よほどきれいなところなのでしょうね。ところで今回、世界遺産となって、解決しなければいけない課題のひとつとして、裾野から頂上に至るまでゴミの問題があります。忍野村内ではゴミの投棄は多いですか。

長田: ゴミそのものは少ないです。私たち、設立当時から清掃を続けていますが、ゴミはほとんどありません。いろんな団体がいろんなところでゴミ拾いをしているので、とてもきれいです。地域の中に、地元を守ろうという気持ちが広がっているからです。以前は不法投棄もありましたが、いまはそんなこともなくなりました。私たちは7月7日を一斉清掃日としているのですが、山梨県のガールスカウト連盟の方に声をかけたら、今年は参加してくださるそうです。また、忍野には自衛隊があり、そちらにも声をかけましたら「100人でも動員します」と。100人ではとても対応しきれないので、20人来ていただくことになりました。富士山はこれまでゴミ問題でずいぶん批判を浴びました。でも、その頃から徐々に富士山に対する美化、環境保全に対する意識が高まりました。

寺尾: ありがとうございます。

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寺尾: 続きまして、紅富士太鼓をはじめ、さまざまな活動を続けてこられた甲府ユネスコ協会の石岡副会長、お願いします。

石岡: 甲府ユネスコ協会では、東日本大震災のときからずっとチャリティコンートを行い、募金を日ユ協連に送金させていただいています。また、武田信玄ゆかりの郷土食ほうとうが最近廃れてきているので、「おほうとうの会」を開き、子どもたちや各種団体に呼びかけて、ほうとうのつくり方を教えています。富士山を世界遺産にという点では、昨年3月、地元の太鼓チーム紅富士太鼓とともに、いち早くユネスコ本部を表敬訪問。パリ市民に太鼓を聞いていただき、世界遺産への盛り上がりを持たせようとしました。多くの海外文化交流をしてきた紅富士太鼓にとって、これが22回目の海外遠征となりました。
今年は世界文化遺産登録記念事業として「富士の国やまなし子ども絵画コンクール」を実施する予定です。山梨県内に300校近くある小中学校の子どもたちに呼びかけて7万人の絵画展を推進しようというものです。締め切りは9月で、受賞した小中学生各2名をパリのUNESCO本部に招待する予定です。当会はだいぶ高齢化が進んでいますので、これを機に若手の人材確保にあたろうと、老骨にむち打ちながら会長ともども頑張っております。さらに昨年は、本栖湖の水質汚染が進んできましたので、ロータリークラブと共同で水を浄化する水草を植えたり、空き缶などのゴミを拾ったりする活動を行いました。このようなことから、とくに子どもたちには持続することの大切さを伝えていきたいです。昔から富士山は登る山ではなく見る山だといわれていますが、今回を契機に、どこを見てもきれいな山づくりを、皆でしていく必要があると思います。
ここで、紅富士太鼓について少し説明させてください。紅色に染まった富士山はめったに見られない、ということからチームを命名し、世界一の大太鼓を持っています。2001年1月1日深夜零時零分一秒から打ち鳴らした、21世紀のいちばん最初にギネス認定された太鼓としてNHK「いく年くる年」でも放映されました。大太鼓の直径は4.8m。上に8名上り、下に8名いて、上下16名でひとつの太鼓を叩きます。この大太鼓も含めて、太鼓は全部で40基。チームはいま50名ほどいて、下は3歳から上は70数歳まで活動しています。これまでにアメリカ各地や、オーストラリア、台湾など海外を巡り、文化活動を大々的に押し進めてきました。ネパールでは2校に太鼓を寄贈してチームをつくり、今年10年目になります。
紅富士太鼓のそもそもの始まりは、18年前の阪神大震災がきっきかけでした。私は屋根会社を営んでいます。会社には、中学をやっと卒業したとか、高校中退とか、暴走族とか、そんな子が何人も働いていて、夜中は3時4時までバイクをブンブン乗り回して朝は起きてこない。お父さんお母さん方も心配していたものですから、私が部屋の鍵を借りて、起こして引っぱってきて、というふうにやっていました。そして1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。4日目に雨が降ったとき、屋根が壊れた家屋では、家具も電化製品も全部、濡れてだめになってしまう。我々は屋根屋だから何とかしようとなった。それで、屋根にかけるシートを1000枚持って、皆で被災地に駆けつけたのが10日目でした。まだ火がくすぶっていたのを、いまでも思い出します。被災数が多いので、灘区と協議をして、お年寄り夫婦とか、一人暮らしとか、障がいをもっていらっしゃる方々を中心にシートをかけてまわった。当時16〜18歳くらいの少年たち、まわりから石を投げられても不思議でない悪たれ坊主たちが、シートをかけてあげることによって、生まれて初めて人から手を合わせて感謝され、泣いている。そういうことを1週間2週間しているうちに、彼らの目がだんだん輝いてくるんですね。それを見て、なんでこの子たちは暴走族なんかしているのだろう。もっと違う何かをさせなければならない。と思うようになり、1年後に太鼓のチームをつくったんです。当時は国内旅行より海外へ行く方が安かったので、やがて太鼓による海外文化交流が始まりました。どうせ行くなら、ただ叩いて帰って来るのではなく、現地の日本人会と連絡をとったりと、幅広く活動を展開していくうちに、地域からも「うちの子どももやらせたい」という声があがり始め、いまでは地域になくてはならないチームに。そのときの子が30歳〜40歳となり、いまや主力メンバーです。紅富士太鼓と名づけたのは、太鼓のチームを立ち上げて1年後のことでした。実は私は青森出身で、ねぶたを聞いた育ったものですから、太鼓の音がすごく身近だったんですよ(笑)。

寺尾: なるほど。それで太鼓ですか(笑)。素晴らしい話ですね。ところで今回、富士山は文化遺産として登録されました。多分、多くの方が、「え?」と思われたのではないでしょうか。そこで、富士山が文化芸術に与えた影響、とりわけ浮世絵に描かれた富士山の芸術的価値を周知啓発することに尽力されている牧野さんから、現在の活動についてご紹介いただければと思います。

牧野: NHKプロモーションの牧野です。私がやった仕事は、ボストン美術館の収蔵庫に約1世紀のあいだ眠っていた「浮世絵の正倉院」といわれるスポルディング・コレクションのデジタル化です。まずボストン美術館で浮世絵約2万点を撮影し、それを日本で研究者の方々に解析していただき、ひとつのデータベースとして、さまざまに使っていこうという活動です。その中から見えてきたのは、江戸人がいかに富士山を愛していたかということ。江戸から西を見た絵には、ほとんどといっていいほど富士山が描かれています。江戸の人たちは、なぜこんなに富士山を愛したのか。調べていくと「富士講」にたどり着きました。富士講とは、富士山に憧れて、富士を神と崇め、一度でいいから富士山へ登って報恩感謝しようという講社のことです。お金を出し合って、何人かを選んで毎年富士山へ行く、というような活動を、おおよそ100年ぐらいやっていました。とくに江戸時代の後半は庶民の暮らしが楽になってきたので、八百八講といわれるくらい、それぞれの町村で盛んになりました。それはある意味、宗教活動といえるのかもしれません。また、江戸時代は参勤交代があったので、江戸っ子が富士を愛するのを見た人たちが、それぞれの地元へ戻って、富士山に憧れたことから生まれたのが「おらが富士」です。鹿児島の開聞岳は「薩摩富士」、青森の岩木山は「津軽富士」というように、「富士」と愛称で呼ばれる山は、日本中どこへ行ってもありますね。
もうひとつ、面白い話があります。1889年のパリ万博を記念してエッフェル塔が建ちましたが、パリの人たちは、あんな鉄のかたまりは文化的ではないと、20年で撤去するはずでした。しかし、いよいよ撤去の年が近づいたとき、エッフェル塔を残そうという活動が、印象派の方々を中心に始まりました。その一環として、「富嶽三十六景」ならぬ「エッフェル三十六景」という36枚の絵が描かれたのです。もちろん、さまざまな富士を描いた北斎の浮世絵に影響されてのことです。こんなことも理由のひとつとなって、エッフェル塔は撤去を免れました。エッフェル塔がいまもパリの街に建つ根っこの先には、浮世絵を通して富士山があった、ということなのです。
浮世絵のデジタル化の一環として、2012年10月、東日本大震災へのご寄附や励ましのお礼に、パリのUNESCO本部で浮世絵の展示会を開きました(機関誌「ユネスコ」2013年1月号参照)。デジタル化した浮世絵を拡大して、和紙に刷り上げて展覧したのです。「富嶽三十六景」の中でも最も有名な「神奈川沖浪裏」(英文タイトル「Great Wave」)などを持って行きました。この絵は「モナリザ」に次いで世界で2番目に有名な絵だといわれています。58カ国の理事国の方々や、現地の人たちにも非常に喜ばれました。ただ「さすが津波の国だ。こんな大きな津波が日本にはくるのですね」というので、「とんでもない。これは津波ではなく、江戸湾内の波を描いたもので、波の間から見えているこれが富士山ですよ」というと、皆さん驚かれます。我々はあの絵を見て、誰もが富士山だとわかりますが、海外の人にはそれがわからず、まず津波の絵だと思ってしまうんです。「この有名な絵に描かれているのが富士山なら、世界中の人がこの富士山を目にしているはず。世界でいちばん文化に影響を与えた山ではなかろうか」とおっしゃった人もいたようです。浮世絵は1900年前後、ヨーロッパの印象派の画家に大いに影響を与えました。ゴッホは浮世絵について「私は日本の空に憧れた。素晴らしいグラデーションの空に憧れた」といっています。当時、浮世絵は世界を席巻していて、富士山は最も頻繁にモチーフとして使われていました。今回、富士山が世界遺産になったのも、北斎さんが少しは力を貸してくれたのかな、と思います。

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寺尾: 富士山は、見る方向によって、見る人によって、その姿形が異なるように、世界遺産になったことへの思いも、それぞれにあるようです。しかし、皆さんに共通しているのは、「愛すべき山」ということではないでしょうか。何らかの心のよりどころとして富士山を見る、という心は大切にしていきたいです。そうはいいましても、これからも富士山を守り、文化芸術をさらに発展させ、価値を高めていくためには、どんな課題があると思われますか。

山内: 自分は富士山以外に世界遺産は行ったことがないので、これからどこが変わってくるのかな、というのがまだピンときません。観光地化の問題や、環境の問題などがあり、いままでのように簡単に行けなくなってしまうのかな、とも思います。世界遺産になる前から5合目あたりから上は、トイレのことが問題になっていますし。実際、自分たちが子どもたちをつれて行くときも、そのことに言及しています。だからといって、立ち入り禁止にして、外から眺めるだけ、というのも違うような気がします。天然記念物などを守ろうというとき、そのもの自体を知るところから始めなければならない、というのは体験的にわかります。だから、一方向からだけでなく、いろいろな角度から、いろいろな人たちが知恵を出し合って、富士山というものを見ていく必要があると思います。

寺尾:
 世界遺産になったということで、科学教室でも、なぜ文化遺産なのか、今後どうしていったらいいか、子どもたちに語りかけることはできますね。それでは、次に石岡さん、お願いします。

石岡: 最近、日本人の心のよりどころが希薄になってきています。子が親や先輩を敬う心とか、そういう当たり前のことがなんとなく衰退してきている。富士山が世界遺産になったことによって、日本人の素晴らしい特性であるもてなしの心とか、秩序を保とうとする心とか、そういう心の文化をもう一度、後世に伝えていく必要があると思います。いま、日本人の心が大きく変わるチャンスがきたのかな、と感じております。

寺尾:
 それは、まさに今回の登録理由のひとつ、「信仰」の部分と結びつく発想ですね。

石岡: 我々の心の象徴としての富士山。美しい、堂々とした富士山。下から見れば美しいけれども、てっぺんに上がれば風速何十メートルという風が吹き荒れている。それでも、どんとかまえている富士山。という存在を我々は、もう一度、再考する必要があると思います。

寺尾: 具体的にユネスコ活動としてアプローチする方法はありますか。

石岡: 日本にもありますが、海外にも「おらが富士」はあります。「富士の国やまなし子ども絵画コンクール」の第2弾では、海外の人たち、主に東南アジアの人たちに、そういう「おらが富士」を描いてもらって、絵画展を開こうという大きなプロジェクトを構想しています。また、何人かを絵画展にお招きして青少年交流をします。そのことによって、我々の富士山をアピールできるし、各国の方々も、自分の国の宝を愛する心を再確認できます。そして、お互いに交流することで、さらに活動を深めていくことができます。
日本は、いま恵まれ過ぎていると思います。後進国の子どもたちと交流することによって、新たなことが見えてくるのではないでしょうか。紅富士太鼓では、以前は先進国にばかり行っていましたが、ネパールに行ったとき、裸足で寄ってくる子どもたちがたくさんいました。空港に降りると、地元の子どもがものをねだりにくるんです。それで、最初は「帰りたい」といっていた子どもたちが、3、4日すると「また来たい国だね」というようになる。いま日本人は、誰かと関わりを持ちたくない人が8割を越えるといわれますが、さまざまな人たちと関わりを持つことは、とても大事なことなのです。
日本一の富士山のある土地に住んでいる我々は、恵まれています。でも、それを汚しては何にもならない。木や花を育てる。忍野ユネスコ協会の長田さんも話していましたが、水を育てる。それにはまず汚さないことです。そういう活動を見た海外の人たちが、お国に帰って同じようなことを実践してくれたら、こんな嬉しいことはありません。活動はローカルですが、グローバルな展開を目指しています。

寺尾: いまのお話は、持続可能な社会づくりにつながる考え方ですね。日本発信で、世界にも呼びかけて社会をつくっていこうという。では牧野さん、お願いします。

牧野:
 私には夢があります。いま世界には、1000近くの世界遺産がありますが、富士山を世界遺産の中でいちばん愛される遺産に育てたいな、という夢です。いまいちばん人気があるのがフランスの「モン・サン・ミッシェル」で、2番目がペルーの「マチュ・ピチュ」です。富士山の標高は世界で108番目ですが、日本には富士山があるんだということを、今回を機にいろんな国の人に知ってもらいたい。そして、各国の「おらが富士」との交流もし、世界に散らばる「富士」がひとつの象徴になって、多くの人に愛される富士山になっていけばいいなと思います。

寺尾: ありがとうございます。富士山を世界一愛される世界遺産にしたい。明快な夢ですね。それでは、長田会長お願いします。

長田: 富士山を世界遺産にするために、村では町並み条例とか、屋根の色とか看板のこととか、いろいろな規制があります。ユネスコ協会としては、忍野村でこの春つくった「忍野八海ものがたり」(原案・監修 東円寺住職 鷹野慈誠/作・絵 こいでなつこ)という絵本を、今年度から小学3年生から中学3年生まで、全員に配り副読本として活用してもらっています。忍野八海は富士山の伏流水による8つの湧水地で、古くから「富士御手洗元八湖」といわれ、信仰の対象として巡拝されていましたが、天保の大飢饉の頃には霊地巡拝が薄らぎ、退廃していました。それを憂えた大我講(富士講の一派)の開祖、大寄友右衛門は、村人と協力して天保14年に池を整備。富士山を目指す行者は池の水で身を清める「富士御手洗元八湖」巡拝の信仰を再興しました。今でいう信仰と絡めた地域起こしです。これからますます多くの人が忍野へ来られると思いますので、子どもたちも皆が忍野八海のことをきちんと紹介できるよう、「忍野八海ものがたり」には、いまお話しした起源がやさしく書いてあります。忍野の住民は知っているようで、地元のことを意外に知りません。富士山があるから忍野八海がある。お客さんも来られる。忍野八海があるからきれいな水も飲める。そういうことに感謝しながら生きること。世界文化遺産に「なったからよかった」ではなく、富士信仰の里をいつまでも守り伝えていきたいです。

寺尾: 当初、考えていたよりずっと奥深い話をいろいろと聞くことができ、大変勉強になりました。富士山が世界遺産になったことで、日本国内でも注目が集まりますし、海外からも注目されるようになります。先ほど牧野さんがおっしゃったように、世界一愛される世界遺産を目指して、また、石岡副会長がおっしゃったように、世界ともつながって、よりよい平和な地球をつくれるようなコンセプトで、ユネスコ協会に呼びかけができたら...。全国のユネスコ協会だけでなく、ユネスコクラブは世界中にありますから、皆でそれを実践できたら、富士山は本当に世界一愛される山になると思います。最後に、今日の座談会を受けて、ひとことで今後の抱負をお願いします。

山内: 知っているようで知らないことは、本当にたくさんあるんだなと思いました。これから我々も、いろんなところで勉強をしながら、この活動につなげていけたらいいと思いました。

石岡: ユネスコ協会は高齢化が進んでいるので、これを機に若者に参加してもらえるような活動を展開していきたいです。そのためには、日ユ協連にもご協力いただきたいし、行政へも熱心に呼びかけることが必要だと思います。

牧野: 世界一愛される世界遺産になることを祈っております。

長田: 富士山があるおかげで私たちは生活できている、という感謝の気持ちを忘れないでいたいと思います。

寺尾: 皆さん、今日はお忙しい中、本当にありがとうございました。


○プロフィール
長田五月(おさだ・さつき)
1943年、富山県生まれ。富山県立氷見高校時代からユネスコ活動を始める。都留文科大学初等教育学科卒業。中井町立中村小学校教諭を経て現在、南都留地域教育推進協議会理事。山梨県ユネスコ連絡協議会副会長、忍野ユネスコ協会会長。

石岡博実(いしおか・ひろみ)
1953年、青森県生まれ。青森県総合職業訓練校卒業。日本ステンレス工業代表取締役会長を務めるかたわら、1997年に紅富士太鼓を起こし青少年海外交流を推進してきた。現在、大月市文化協会副会長、やまなし環境会議常任理事。甲府ユネスコ協会副会長。

山内登志弘(やまうち・としひろ)
1964年、静岡県生まれ。静岡大学卒業。浜松ユネスコ協会主催の科学教室の運営に携わる一方、野外活動センター主催事業の自然観察講師として活躍。1998〜2000年度、在外教育派遣教員としてイタリア・ミラノ日本人学校に勤務。現在、静岡県浜松市立北浜北小学校主幹教諭。

牧野健太郎(まきの・けんたろう)
1956年、福井県生まれ。法政大学卒業。株式会社NHKプロモーション・上席執行役員・特命担当。2003年からボストン美術館と共同で制作中の浮世絵デジタル化プロジェクトの責任者。NHK文化センター・明治大学・明治大学リバティーアカデミー講師。日本ユネスコ協会連盟評議委員。

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