ユネスコサロン“民間ユネスコ運動60年の光と影”

 

4月21日(金)18:30から生涯学習センター第六会議室でサロンは始まった。講師は尾花珠樹さん。

長年日ユ協連の事務局長を務め、いまは鎌倉ユネスコの理事として活躍しているユネスコの生き字引ともいえる人。

 

まず、尾花さんが監修した「日本のユネスコ加盟1951」というビデオを見た。これは55年ぶりに発見された、当時GHQが撮影した記録映画をわかりやすく日本人向きに編集し直したビデオで、首席代表前田多門氏、民間代表藤山愛一郎氏などの顔が見えた。ユネスコ加盟時の日本人の感激・興奮を改めて味わった。

サロンのためのクイズ
 つぎにサロンのために考案されたクイズに全員が挑戦。これが意外に難しい。一例を挙げれば、「日本は60番目のユネスコ加盟国となったが、そのとき、まだ加盟していなかった国はどこ?
アメリカ、アフガニスタン、韓国、フィリピン、イタリア、ソ連、スペイン、北朝鮮、中国の中から3カ国を選ぶ」質問があったが、皆さんはわかりますか(回答文末)。5問中3問正解者が最高で、正解者には『世界遺産年報』最新版をプレゼント。国連には最初から参加して常任理事国をつとめるソ連が、ユネスコには、なぜ参加しなかったか、などの背景を講師は解説した。

本論に入って、年表を基に、民間ユネスコのターニング・ポイントとしての三つの時代を話された。尾花さんはいま、来年、日ユ協連が刊行予定の『民間ユネスコ運動60年史』編纂にとりくんでいるが、"正史"には登場しない秘史について語ったこの日の講話は、面白かった部分はオフレコが多く、その全てをレポートできないのが残念。大要は以下の通りである。

第一は「1951年、日本のユネスコ加盟が承認されたとき」。
 願望だったユネスコへの加盟が実現したのだから、民間運動はここで解散してもいいのではないかの声が挙がった。が、ユネスコ憲章前文にある「政府の約束だけでは平和は永続しない。世界の諸人民の誠実な支持を確保する平和・・・」を実現するためには、尚いっそう民間運動が大切との考えで存続がきまった。と同時に、占領下の日本で、ユネスコ運動に参加していれば海外留学や情報入手などのメリットがあるだろうと期待していた一部の人びとは、サンフランシスコ条約の発効と共に離れていった。

第二は「1963年の日ユ協連への国庫補助金が実現したとき」
 これまでは会員の会費を中心に、全くの自主財源で運動を進めてきたのに対し、文部・外務両省と国会議員の支援で初年度1600万円の補助金が計上された。これは"光"の部分。但し事業への半額補助とはいうものの、実際には民間側が60%余を負担しなければならず、事務も煩雑。加えて70年安保を控えて国の管理体制が強化され、例えば、それまで自主参加でやってきた高校生ユネスコ全国大会も教師の引率が義務づけられたり。もっとも数年前からは政府の緊縮財政によって補助金はゼロになったが。

第三は「1984年のアメリカがユネスコを脱退したとき」
 米国に続いて英国もユネスコに脱退を通告した前後が、最大の危機に直面した時代。米英に追随して日本も脱退かの風潮が政・官・財界を覆った。マスコミも同調し、新聞は記者クラブを通す情報を鵜呑みの形で報道、テレビ・コメンテーターも自らの足で調べず誤報を垂れ流した。民間運動は、その余波をモロに被った。企業からは維持会員をやめる申し出が、地方自治体に事務局をおくユネスコ協会の中には活動がやりにくくなる所も続出した。
 その流れに抗して日ユ協連は米英両首脳に「脱退再考」を促す手紙を送ると同時に、日本の脱退を阻止する運動を展開した。日本が脱退しない方向へと舵を切り換えた動機の一つに、桑原武夫副会長による中曽根首相への説得があったという。ユネスコ本部の職員・相良憲昭さんによるパリから「朝日新聞」への投稿はマスコミの流れに反省を促したという。
(クイズ回答:ソ連、スペイン、北朝鮮)         (鴇澤)