
塩津哲生氏が能についてお書きになったものをご覧下さい。
「観よう」とする意気を 喜多流職分 塩津哲生
能を一度も観たことがないのに、能は「解かりにくいもの」、「たいくつなもの」ということだけは、なぜか多くの人に浸透しているようです。
能舞台は観客席に張り出して出来ています。それは、能は観客に観せるものではなく、演者と観客とで創りあげていく要素を多分に持った芸術であるからです。極端に無駄を省き、一本の松が三保の松原を象徴し、波に浮かぶ千鳥・鴎は演者が手にした扇で千鳥・鴎の方を指すだけなのです。千鳥・鴎の置物もありません。観る人のそれぞれの心のなかに三保の松原を、千鳥・鴎を思い浮かべ、自分の舞台を創っていくのです。それは朝もや立ち込める、幻想的な松原であろうと、紅の夕陽に照り輝く松原を想い描こうと、観る人、それぞれに自由なのです。演者の力が優れていれば、観る人はその情景を彷彿とするでしょうし、そこまでの力をつけることが演者の理想でもあります。その力の最も源にあるものは気力です。静かに佇んでいる時も、演者の内面に燃焼しているエネルギーは大変なものです。そして、それを生かすも殺すも観る人達によるところが大きいのです。観ようとする意気と、演者の意気がぶつかりあってはじめて心を打つものが生ずるのだと思います。演者の魂に凝縮されたエネルギーが能の核であり、それがあの能面に血を通わせ、ほほえんで見えるのです。そこが能の難しさの所以であり、美しさの源泉でもあります。
わずか一時間足らず、長い人生のなかではまたたく間です。「よし観てやろう」と舞台にくらいつく位の気持で観て、日本の最も誇れる伝統芸能である能の中から、何か一つでも感じとっていただきたく思います。