ネパール里子訪問報告 2002.11.3〜2002.11.18
会長 本多 隆
今回の里子訪問の参加者は事務局で里子の手紙管理をボランティアでお手伝いしてい頂いている橋本康代さん(さいたま市)と柳田華子・忠男夫妻(名古屋市)と私を含めて4名になる。
2002年11月3日、早朝5時半大宮の自宅を出て羽田から国内線を乗り継ぎ、柳田夫妻とは関西空港で合流しロイヤルネパール航空で一路カトマンズへ向かった。現地ネパールの首都カトマンズに午後7時着、宿泊。
11月4日から6日まではティハールと呼ばれる収穫祭の為、学校が休みでその間学校訪問等の準備打ち合わせに追われていたが、カトマンズ近郊も観光する。
11月7日 現地ネパールの協力者ゴパル氏とロス氏と共にカトマンズの南西250Km、空路40分バイラワ空港へ飛び、そこからタクシーで3時間、夕刻パルパ県県庁所在地の古都タンセンにて宿泊。現地協力者、垣見一雅氏と合流する。
11月8日 パルパ県フーミン村の学校コード#14、ジャナヒット初等中学校をジープで2時間かけて訪問する。全校生徒350人と教職員、近隣の学校#02、#03,#04、#14、#16、#17(里子コードの上二桁)の6校の校長先生と#17カマラデヴィ小学校の里子たち8人が集まって、11教室の開校式と里子支援金の贈呈式を催した。その模様はネパール国営放送に取材されその晩、テレビで全国放映された。里親制度の運営が優秀であった#2と#3の学校を表彰して特別に5名の里子を追加して支援することを発表する。里子のビデオを参加者全員数秒づつ撮影する。夕刻#15シッタルダ小学校へジープで向かう。ジープは途中までしか入れず、村までの迎えがきており荷物を担いでもらって山道を2時間半徒歩で行く。ビルコット 自治委員長宅泊
11月9日 朝から#15シッタルダ小学校の開校式と奨学金の贈呈式を行い、近隣の学校から次年度の里子募集の説明会に5人の校長が参加した。ゲザ教師宿泊。
11月10日 山道を徒歩で2時間半、#01ガナパティ高等中学校で奨学金の贈与式と運営指導と里子募集説明会を行う。#08、#10、#12、の学校の教師と里子が出席する。
里子のビデオを参加者全員数秒づつ撮影する。
#12バヌバクタ初等中学校は里子からの手紙を送って来なかったので、25人の生徒と一緒に式典に参加しにきたのではあったが、支援中止を申し渡した。その後ジープで#11ランバ高等中学を訪問し生徒のネパール舞踊を観劇した。ドリマラ村ゲストハウス泊。宿泊
11月11日 後半の準備打ち合わせ。柳田氏の子息の里子(#3ソンブ高等中学校)の家にて夕食の招待を受ける。白米に旬の野菜を油炒めした後煮込んだ汁掛けご飯、簡素な食事であるが村人は丼に2杯ぐらいたらふく食べる。ドリマラ村ゲストハウス泊。
11月12日 ドリマラ村から徒歩で2時間半、#19カマラ小学校訪問。途中柳田夫人の里子に遭遇する。校長宅にて昼食を馳走になる。夕食はドリマラ村の医者代わりの調剤師宅に招待される。煮込んだ鳥の手羽のご馳走であった。
11月13日 ドリマラ村から徒歩にて2時間。#17カマラデビ小学校。6教室建設プロジェクトを贈呈する。里子のビデオを参加者全員数秒づつ撮影する。そこから、#03ソンブ高等中学校を訪問。#19、#21校が出席する。ドリマラ泊
11月14日 ドリマラ村から徒歩にて2時間、#02マツリブーミー高等中学校を訪問する。里子のビデオを参加者全員数秒づつ撮影する。ジープとバスを乗り継いでバイラワ空港よりカトマンズへ向かう。 バクタプル ホテル泊
11月15日 バクタプルより車で2時間。ラリタプルの#27デビ初等中学校訪問次年度学校建設予定の学校でもあり熱烈歓迎を受ける。里子のビデオを参加者全員数秒づつ撮影する。帰りに、#05アラニコ高等中学校と#09
11月16日 カトマンズ観光 カトマンズ泊
11月17日 早朝8時定刻を8時間遅れで空路日本へ
11月18日 関西空港経由で夕刻、帰宅
現在、共産党系の反政府分子のテロ活動が激しい為、学校側から、訪問を見合わせるように要請が来たところがあった。その為全部を廻ることが出来なかったが以上11校を訪問し、その学校に5校が来訪して、残り校8は垣見氏が後日12月の他の集会にて贈呈と監督指導を行う。
コード(里子コードの上二桁) 学校名 里子数 建設教室数 年度
1 ガナパティ高等中学校 25
2 マツリブーミー高等中学校 25
3 ソンブ高等中学校 25
4 ウッドブッダ高等中学校 25
5 アラニコ高等中学校 25
6 チャンドロダヤ初等中学校 25 5 2001
7 クリシチナデビ高等中学校 25
8 ビレンドラ小学校 8
9 バルチェタン 10
10 ジャナシャンティ小学校 25
11 ランバ高等中学校 25
12 バヌバクタ小学校 支援中止 25
13 バグバリ小学校 支援中止 7
14 ジャナヒット初等中学校 11 11 2001
15 シッダルダ小学校 13 3 2001
16 チャンデシワリ小学校 6 7 2002
17 カマラデビ小学校 8 6 2002
18 ランプール小学校 9
19 カマラ マイダン小学校 8
20 ジャナク小学校 支援中止 7
21 カマラ ジャルパ小学校 6
22 アンシュバルマ初等中学校小学校 18
23 バルヒット小学校 5
24 ブディビカス小学校 3
25 ビムセン小学校 12
26 ダラデビ小学校 11
27 デビ小学校 25
事務局ボランティア ネパール訪問記
橋本 康代
ネパールの子供たちが奨学支援金を受け取るということは、単に授業料としてのお金や学用品等のモノを手に入れることではありません。一番大切なことはその支援金を出して下さった里親の方のこころ・想いを受け取ることだと思います。
ですから里親への感謝の気持ちを忘れず、里親との交流を身近なものとして感じ取ってもらう為に、里子には年一回里親へ手紙を書くことを義務付けています。また、里親の方にも支援金を送ることだけにとどまらず、里子の日々の生活を知り、ご自分の里子への思いを深めながら成長を見守って頂きたいと思います。
当協会としては、現地の学校が提出すべき書類に中でこの里親の手紙を一番重要なものとしています。
しかし、普段日常の中で手紙に接する機会が殆どなく、ましてや、住んでいる村以外のことはあまり知らないという子供たちに「さぁ、日本の里親に手紙を書きましょう」と言っても何をどう書いて良いのか全く解らないのが現状です。また、学校の先生たちにしてみても手紙を書くという習慣がほとんどなく、特に人が歩いて連絡して廻るような奥地の村では手紙と言うものには疎遠なのが実情です。
その為当初は、先生自体が見本としてもおぼつかない手紙を書き、それを生徒たちが書き写す形になり皆同じ様な内容の手紙が当協会に送られてきていました。
そこで、現地の学校にて手紙の内容を工夫する指導をしてきました。具体例を詳細に示すと、先生方は首を横(日本では肯定は縦)に振ってうなずきながら熱心にメモをとっていました。少しずつでも良いから改善していく努力を、まず先生達自身がする事を感じとって下さったようでした。
今回、訪問した9の校の会場ごとに口頭で説明・指導したことは大変でしたが、その甲斐あってその後送られてきた手紙はどの学校も前回より工夫した内容になっていました。
また、里親への手紙に添える写真についても手紙の内容と併せて特に指導したひとつです。顔写真ではなく具体例を示して、出来る限り生活観があるものを要望しました。それは手紙では上手に表現出来ないことでも写真の中から少しでも多く読み手って頂けるのではないかと考えたからです。
しかし、一口に工夫した写真を撮るようにと指導しても、ネパールでは写真を撮ること自体がとても大変なことなのです。
l カメラが村にないときは隣村まで借りに行く(今回各校1台寄贈した)
l 有っても1台しかない為、各子供の家(遠い家は徒歩で1時間以上)まで行かねばならない
l カメラを手にすることが始めての先生も多く、まともな写真を撮るのが難しい。
l
写真を現像しに行くのにも町まで1日掛かりで時間もお金もかかる。
こうした事情の中で現地の先生がたは大変苦労しています。
しかし、奨学支援を継続して受ける為には要望には応えねばならないと強く感じたのでしょう。今回送られてきた写真は以前に比較して大変内容の有るものでした。一方、様々な事情から残念ながら顔写真のみと言うところも有りました。
私たち日本人には手紙を書いたり、写真をとったりすることは出来不出来は別にしてなんの造作もいらないことですが、ネパールの僻地では、豊かな暮らしの中にいる人たちには想像もつかないような努力を必要としているのです。
里親の皆さんにこの実情を知って貰い、ご理解頂きたいと思います。
里子に会いに幾千里
柳田 華子
2002年11月3日、私と夫は、さいたまユネスコ協会の本多会長、事務局ボランティアの橋本さんといっしょに、関西空港からネパールへの旅に出ました。
私にとっては6回目のネパールでしたが、いつもはヒマラヤトレッキングが目的でしたので、今回の村歩きは初めての経験で、楽しみにしていた旅でした。
本多さんとお知合いになれたのも、トレッキング中偶然同じ宿に泊まったことでした。
それがご縁で、パルパ県ジャルパ村に住むヒラ・ダラミ君という中学生の里子ができました。また、私の息子も、デビさんという小学生の女の子の里親になりました。
以前、ダラミ君に出した手紙に、「一度、会いに行きたいです」と書いたことがありましたが、それが本当に実現することになったわけです。
カトマンドゥからバイラワへ飛び、そこからジープに揺られ、ほこりにまみれて、タンセン経由で目的地にたどり着きました。
11月8日、本多さんやOKバジィこと、垣見一雅さんたちのご好意により、クーミン村の小学校の校舎増築落成式に出席させていただくことができました。式典は日本と同様、来賓や関係者の祝辞が延々と続きました。レイを幾輪もかけられて花の匂いでむせかえり、ティカをつけられリンゴ娘になりました。式の後、本多さんたちが、奨学金の手続きなどの事務的な仕事をされている間、私の出番が回ってきました。
実は、この旅に、一人でする人形劇=「エプロンシアター」とギターを持っていったのです。
「エプロンシアター」の出し物は「大きなかぶ」という物語で、エプロンのポケットに入っている人形やカブのぬいぐるみを、物語が進むにしたがって登場させ、マジックテープでエプロンに貼り付けていくのです。お話はネパール語でしましたが、ネパール語は名古屋でネパール料理店を営む、知人のネパール人、スワルさんに教えていただきました。
また、ギター伴奏でみんないっしょに歌いたいと思い、「ドレミの歌」にネパール語の歌詞をつけた楽譜を用意していきました。その歌詞は、いつも宿泊している宿の娘さんに作ってもらいました。ドレミファソラシドは、ネパール語では、サレガマパダニサといいます。歌詞は次のようなものです。
サ Saathi(友達)、レ Lekhak(書く―「名前を書いてください」)、ガ Gaai(牛―「牛が来たよ」)、マ Makai(とうもろこし―「とうもろこしが焼けたよ」)、パ Panjaa(手袋―「手袋を失くしちゃった」)、ダ Dasain(祭りの名―「ダサインだよ」)、ニ Nilo(青―「青いい空」)、サ―「さあ歌いましょう」。
開校式の校庭や教室、家の軒下や道端で、吟遊詩人よろしく歌い、弾きました。
エプロンシアターは、子どもも大喜びでしたが、大人たちにも大いに受けました。持って行ってよかったと思いました。8日間の村歩き中、20回近く演じ、ギターを弾きました。
11月10日の夜、ドリマラ村に着きました。
この村にはOKバジィ(バジィとはおじさんということです)が住んでいて、さいたまユネスコ協会の活動を現地で支え、また村人たちの「よろず相談者」になっています。OKバジィには、以前カトマンドゥで2回お会いしたことがあります。
ドリマラ村はDream に語感が似ていて、一度行ってみたいと夢見ていた土地でした。
日本からは、現地での支援活動をしたり、視察に来たりして、たくさんの人が訪れるので、村人が学校の2階にゲストルームを作ってくれたそうで、私たちもそこに泊まりました。
翌日、一人の女の子が紙切れを持ってやってきました。それにはOKバジィの字で、「この子が里子のデビです。確かめてください」と書いてありました。それで、以前、日本で手紙と一緒に受け取った写真を出し、女の子に見せたところ、本人だと判りました。
その日は、デビの家で夕食をご馳走になりました。デビは弟と母と3人暮らしでした。父親は2年前に事故で亡くなったそうです。私はお土産のABCの絵本とお菓子とハンカチをあげました。その後、何度もデビの家の前を通ったのですが、いつも弟と二人でその絵本を見ていました。
もう一人の里子のヒラ・ダラミ君は、写真を村の人に見せたところ、ドリマラ村から歩いて2時間ほどの村に住んでいることが判りました。私たちが訪ねることを知らせてもらい、翌日一日がかりで会いに行くことになりました。
なんと途中でばったり彼に会いました。写真に写っていたのと同じTシャツを着ていて、間違いなく彼だと判りました。とても背が高く、握手した手は大きく、よく働いている大人の手をしていました。写真ではわからなかったのですが、右の目は怪我がもとで失明していました。
お土産に英語で書かれた童話の本や名古屋の絵はがきを渡しました。
彼と別れてからその両親に会いに行きましたが、大家族で、9人の兄弟姉妹がいました。
村の子どもたちはよく働きます。どの子も小柄なので、年齢よりは2つ、3つ幼く見えます。
朝早く、村の子たちが里芋ほりをしに行くというので、いっしょに急な段々畑を登りはじめましたが、彼らの足の速いことといったら、こちらがハアハア息をつきながらやっと上がって行く間に見失い、道に迷ってしまいました。
あどけない女の子も、実にじょうずに芋ほりをし、将来のかけがいのない労働の担い手となる素地を、垣間見せてくれました。男の子は芋ほりばかりではなく、草刈りもしました。
草刈りなどは、どうやら子どもに課された仕事らしく、弓形の鎌で手際よく刈ると、手早くまず小さな束にし、更にそれらを大きな束にくくって背負いやすくします。そして、その重い荷をかついで、急斜面の山道を危なげなくさっさと下っていきます。
貧しいけれどもどの子もいきいきと目を輝かして働き、暗い明かりの下でノートを書き、そして夢中になって遊びころげる姿を見ると、果たしてその子たちは貧しいのだろうか、とふと思ってしまいました。
村の人たちの生活は、ほんとうに貧しいのですが、子どもたちにとってそれは、けっして不幸ではないということを教えられました。
私の贈っている奨学金が、里子に接してみて、間違いなく役に立っていることを実感しました。
それがその子どもにとって、人生を変えるほどの大きな価値になることを願っています。
ドリマラ村の裏の尾根に上がると、実にすばらしい光景を眺めることができます。ヒマラヤの8千メートル級の山が連なっているのです。ダウラギリ、アンナプルナ山群、マナスル、ヒマルチュリ。
ここからだけではなく、訪問したいくつかの学校の窓からも、そして尾根の上にあるそうした学校へ行く道々からも、これらの白雪に輝く雄大な山稜を展望することができました。
日々こうした光景を見て、子どもたちは何を感じ、どんな思いを抱いているのでしょうか。
夜は満天の星空、たくさんの蛍、夜香樹の匂い。
そんなドリマラ村にも最近電灯が灯りました。少し離れた集落では、TVに見入る人たちを見かけました。時が、「文明」なるものを生活の中に、ひたひたと滲みこませていくのを、感じました。
8日間の村歩きで、素朴な村人たちや暮らしに触れることができましたが、またいつの日にか、ここを訪れる機会があったら、その暮らしもきっと変わっていることでしょう。その時、私の里子はどのように成長しているでしょうか。
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