石見銀山遺跡とその文化的景観スタディーツアー

なんというタイミング! 工藤父母道さんをリーダーとするスタディツアーに参加を申し込んだのは半年前であったが、訪問時はニュージーランドで開催の世界遺産委員会で登録が承認されて一週間後。会議から帰国したばかりの地元関係者から会議のホットな模様もうかがえた貴重なツアーだった。

◆薬師祭りと石見神楽
1日目:日本では最初の産業遺産・石見銀山を訪れた。工藤先生の「島根は面白い」という言葉で始まったこの日は、まず「出雲割子そば」で腹ごしらえ。石見地区ユネスコ協会事務局長山形俊樹さんの案内で石見銀山の銀鉱石積出し港の一つ沖泊へ。16世紀から1923年まで400年間操業しつづけ、中世ヨーロッパの古地図上にも「IWAMI」と記入されている石見は銀の生産地としてその名を世界にとどろかせていたらしい。
 この日、温泉津温泉(ゆのつおんせん)は一年一度の薬師祭り。二つの共同湯も無料開放。夜は工藤先生お勧めの"石見神楽"を鑑賞。このために一年前から宿の予約をしたという。「お神楽って退屈なものでは?」との懸念はのっけから吹き払われ、面と羽織袴の衣装をつけた村人の演者と最前列に陣取った地元の子どもたちとの当意即妙な掛け合いには爆笑。神話や歴史に題材をとった演目も豪華な衣装で、迫力ある立ち回りに圧倒される。これぞ日本の民衆に受け継がれてきた、生きている伝統、無形文化財ではとの思いを深くした。        (岡野)

◆大逆転での登録実現
2日目:石見銀山の世界遺産登録運動の核となった二人の紳士にお会いする。どちらも「重要伝統的建造物群保存地区」にお住まいの温泉津の内藤又左衛門淳彦さんと大森町の中村俊郎さん。
 内藤さんは250年にわたりこの地の庄屋をつとめた旧家の主(写真下・中央)で石見地区ユネスコ協会の会長。広大な邸内の襖や障子を夏建具に替えたばかりの涼しい和室で、ニュージーランドでの世界遺産委員会に出席した折のお話を聞いた。
 諮問機関であるICOMOSから検証資料の不足など疑義が出され登録実現があやぶまれていただけに「今回の決定は本当に嬉しい」と、内藤さんは二人三脚で町の保全にとりくんできた夫人を顧みる。
 実際、会議の行方は最後まで判らなかったという。韓国や中国はICOMOSと同じ事由で最初は反対の立場を表明。しかし関係省庁や島根県、とくに近藤誠一ユネスコ大使の大活躍で最後は満場一致での登録承認になったという。
「これからは銀山をきちんと保全し将来に遺してゆくため、むしろ身の引き締まる思いです」と。
 一方、銀山麓の大森町で生まれた中村さんは「幼時、父親から石見銀山とマルコポーロは面白い」と聞いて育った。「夢は実現しなくては」と笑顔で語る中村さんが銀山に懸ける想いは熱い。ニュージーランド会議にもご夫妻で参加した。20年以上かけ私財を投じ、銀山に関するあらゆる古地図、絵巻物、銀貨等を蒐集し、ついに個人博物館を作ってしまった。建物は壊される寸前だった明治時代の旧銀行を買い取り修復した。通常は非公開のサロンに招じ入れられ蒐集品も見せていただいた。かつて県教育委員長をつとめ現在も島根大学客員教授である中村さんは、いま自宅近隣にある大森代官所跡の保全にとりくんでいる。

◆江戸時代のノミの跡
 この日の午後は今回ツアーのハイライト、銀山坑道(間歩=まぶという)へ。危険防止で全員ヘルメットと長靴着用。摂氏13度、冷気と雨水・地下水したたる坑道を懐中電灯で照らしながらゆっくり進む。江戸時代以前は手掘りで一日一尺掘るのがやっと。一日五交代、平均寿命30歳だったとか。壁面には当時のノミの跡がそのまま残っている。往時、この仙の山には20万人もの人が住んでいて、井戸や酒屋もあり、精錬所跡も発見されている。山師と呼ばれた坑夫達は立派な職能集団で南米の鉱山とは違い高い賃金で働いていたそうだ。      (内田)
3日目:縄文時代、3500年前の三瓶山噴火で地下に閉じ込められた小豆原埋没林公園で神秘の気をいただき、しかし心に「鎌倉に一人の内藤氏ありや、一人の中村氏ありや」とつぶやきながらの帰宅でありました。   (尾花)

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