|
3. 21世紀にむけての課題
私が事務局長時代に達成できた事は、世界寺子屋運動がスタートしたことと世界連盟を作ったことなんですけれども、もう一つ、イギリスとアメリカが脱退した時に日本が脱退しそうになったんです。
無理もないことで、ユネスコが設立された時「ユネスコ運動を市民が始めようとしたら地方自治体を含めて行政がそれを助けなければならない」とユネスコに関する法律まで作り六法全書に明記されている程外務省も文部省も力を入れていたのです。
しかし、50年近くたち当時を知る人がいなかったんですね。
日本が貧しくて大変で国連にも未加入で、まだサンフランシスコ条約も成立していない占領下にある時に、唯一ユネスコだけがユネスコに加入しなさいと薦めてくれているんです。国際社会でたった一つユネスコだけが迎えてくれたんです。
私が勤めていた日本ユネスコ協会連盟の事務局というのは丸の内の第一生命の隣のビルにあったんですが、当時は第一生命の本社屋をマッカーサーが総指令部として使っていて、屋上には国連旗がはためいていました。
マッカーサーが正面入口からパイプをくわえて朝夕出入りするのをこの目で見ていた。
そういう政情下にもかかわらず日本を迎え入れてくれたんです。
しかしそんな事情を知らない世代が日本の中枢を占めている1980年代は「アメリカもイギリスも脱退したから日本も追従しましょう。」という風潮になるのは当然でした。
この時絶対阻止しなければと立ち上がったのが日本ユネスコ協会連盟です。
私たちは当時の中曽根総理大臣、外務大臣、文部大臣に「全国のユネスコ協会はこぞって日本の脱退に反対します。思い起こしてください。我々を戦後のあの厳しい時代、最初に迎え入れたのはユネスコではないですか。その恩を忘れてどうするんですか。」という建白書を当時の副会長の桑原武夫先生に起草していただいて会員の承認を得て持っていったんです。
それで初めて政府が目を開き脱退が避けられ今日まできているのです。
よく民間ユネスコと行政は車の両輪であると言われます。
行政と協力しながらやってゆくことは大事なことです。
しかし時には行政が枠にしばられてできないことを民間がリードしていくことも大事なんですね。
そうしなければいけない事はたくさんあると思うんです。
例えば核兵器実験禁止、これを1982年の国連軍縮総会の時日本全国でも軍縮の動きが出てきて市民運動をしようという動きが起こってきましたが、外務省は反対なんです。
私たちは事務局長及び理事長が呼びつけられ叱られました。
「民間ユネスコ運動が軍縮なんていっていいんですか。」と。
今は政府も賛成していますよね。
だから民間運動は常に行政の二歩三歩先を歩くことが大切です。
でも十歩先を歩くとこれは危険です。
軍縮総会のときも社団法人を取り消されてもいいのかとまで言われました。
あの時は十歩先だったのかなと反省しています。
けれど二、三歩先で光を掲げて行く。
例えば原爆ドームの世界遺産登録ですが、あれも最初政府は全く乗り気でなかったんです。
広島ユネスコ協会の高橋さんが先ず言い始め、これも大河の一滴でした。
次々に広まり被爆なさった平山郁夫さんたちが協力して、終りに政府は文化財保護法を改正して原爆ドームを世界遺産に登録するようにしたんです。
だから政府が「ノー」と言っているからと諦めたら素晴らしい事は実現しないで潰れてしまうということを日光ユネスコ協会の発足にあたってお祝の言葉にしようと思ってきました。
来年は平和の文化国際年という国連の年です。
ユネスコの課題は、50年以上活動してきたがやはり紛争はなくならなかったということです。
ユネスコは無力ではないかといわれますが、私はユニセフとユネスコの違いだと思うんです。
ユニセフや緒方貞子さんが関わっている難民救済のUNHCRは、大きな災害や難民が出た時や戦後の人々が苦しんだ時、そこに緊急に出かけて難民救済や食料や薬品を届けたりする。
お医者さんなら外科医ですね。
ユネスコというのはそういう争いや悲惨な事が起こらないように一生懸命、教育科学文化を通して人々の心の中に平和の砦を作る事を進めていく。
お医者さんなら予防医です。
道はすごく遠いように思われますけれども、この50年間で成果は確実に出てきています。