平成18年2月20日から3月1日までの10日間、目黒ユネスコ協会の原田富美子副会長、黒谷節子理事、久富美智子会員と私の4人は、ミャンマー視察の旅に出た。
今回の視察旅行には四つの目的があった。
その第一は、目黒ユネスコの国際交流青年リトリートで大活躍し、誰にも親しまれたミャンマー出身のヌット君の運営するチョッコン小・中学校のプロジェクトの現状を視察・激励・目黒ユネスコ協会からの支援金を手渡すことであった。
その第二は、原田さんのご尊父をはじめ、16万人の犠牲者を出したビルマ戦線の犠牲者の墓参を出来るだけ行い慰霊につとめること。
その第三は、仏教の世界三大遺跡の一つと言われ、近い将来世界遺産にも指定されるといわれるパガン王朝の遺跡群を始めミャンマーの文化を学ぶこと。 その第四は、日本ユネスコ協会連盟から特に依頼された、寺子屋運動をミャンマーで実施できるかどうか可能性を検討することであった。
先ず首都ヤンゴンに着いてみての第一印象は、空港が大拡張かつ近代化され、近隣諸国の首都空港に遜色なくなったこと、都心に向う道路も良く舗装され、滴るばかりの緑の樹木、花壇、そしてそこに点在する寺院・パゴダなど、9年前(平成9年)の私の訪問の折の寂しかった印象を覆すに十分であった。ホテルは、ヌット君手配のNIKKO Royal Lake Hotel であったが、日本人経営のホテルだけあって、細かい配慮が多くあり、快い滞在が可能であった。
到着後の第1日目の2月22日の日程は、目的の第一にあるチョッコン小・中学校の訪問であった。早朝にホテルをライト・バンで出発、西方に向いイラワジ河を渡り、進むこと37キロ、チョッコン小・中学校は、文字通り農村地域の真只中にあった。我々が到着すると見るや、生徒が一斉に校門から校舎にかけての道路に並び、校長先生を始め先生方、またPTAの中心メンバーも出てこられ歓迎してくれた。そして我々は、二階の空き教室に導かれ、早速の挨拶の交換、そして先生方、PTAの人達との意見の交流を行なった。話が弾み始めたが、他方先生方のいない教室では、生徒が手持ち無沙汰で困っている様子、早速久富先生が、日本から持参の折り紙を生徒に手渡し、その指導を始められた。原田、黒谷のお二人も助手として指導に参加された。他方、私などは、PTAの会長や役員さんたちと、今後の計画、必要なことなどを話し合い、またヌット君とは個人的に学校運営の要点などを話し合った。国立学校という色々の制約がある中で、如何にこの教育の質的改善を図って行くかについても意見を聞いたが、彼は過去2年の経験の内に、確りとこの学校の経営について“こつ”を掴んでいるようだ。頼もしいことである。
最後に、我々一同は手分けして記念植樹を行なった。校舎に向って校門の直ぐ右側と、同じく校舎の右側の、井戸との間に行ない、近い将来の再訪問を約して別れを告げた。別れに際しては持参した“てらちゃんマーク入りのクリアファイル”を一人ひとりに手渡した。また帰途ヤンゴン市内運動具店に立ち寄り、生徒たち希望のサッカーボール8個(各クラス1コ宛)を買い求め、学校へのプレゼントとして託した。
第2日目の2月23日は午前10時、かねての打ち合わせの通りミャンマー政府文部省の「識字教育センター(LRC)」にU Myint Han氏とU Tin Nyo氏を訪ねた。センターは、文部省に程近い場所にあったが、同センターを訪問してみると東京のアジアユネスコ文化センター(ACCU)からの十分な連絡・紹介もあり、スタッフ全員で出迎えてくれた。挨拶の交換もそこそこに、早速VTRを通じてその施設や事業内容を見せて頂き、幹部の方々と隔意のない意見の交換を行なった。要するに、識字資源センター(LRC)は、過去数年のアジアユネスコ文化センター(ACCU)との協力の内に、相当な成果を収めたが、末端の地域学習センター(CLC)の運営にはまだ弱く、この点ユネスコ協会連盟側からの援助・協力が欲しいということであった。
この日の午後は、ヤンゴンの北東70キロの有名なペグーの釈迦寝像の参拝であった。お釈迦様の涅槃に入られた姿の像といわれるが、そのお顔は綺麗に化粧され、善男善女の参拝を優しく見守っておられた。他方この地は原田さんのご父君の戦死の地でもあった。かねてからこの付近のお寺に日本兵の慰霊碑があるということを聞いていたので、尋ね歩くと、ついに探し当てることができた。お寺の敷地内の一角に「盾兵団慰霊碑」とあった。静かな木立に囲まれた場所であった。原田さんは勿論、全員でお花とお線香を手向けて其の霊の安かれと祈った。
第3日目の2月24日は、パガンに向う日であった。朝6時発の飛行便ということで、慌しかったが、約一時間後に到着した。町全体、ホテルまでも遺跡群の中にあった。3,300の遺跡があるといわれるが、そのうち6箇所の有名パゴダを歩き、そのうちの一つダビニュー寺院横の弓兵団の慰霊碑にも参拝した。また午後には馬車2台に分乗して見学し続けた。また夕方には、ボートに乗りインパール方向の西山に隠れる落日をイラワジ河上から眺める光景は素晴らしいものであったし、降るような星空の下、民俗音楽・舞踊を見聞きしながら取る夕食も印象的であった。

第4日目の2月25日は、シャン高原に飛び、インレー湖畔に宿泊した。此処の風景や人々の暮らしなども、詳しく書きたいところであるが、既に字数を越えているので今回は残念ながら取りやめ、次の機会に譲ることとする。
第5、第6日目も色々と有効に過ごしたが、中でも、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダの参拝、国立博物館見学、現在在日留学中のマウン・テー・ハー君の両親との面談・会食、日本人墓地の参拝など印象的なことが続いた。
かくして、何か怖い国といわれるミャンマーも、行ってみると、最も親しみ易い国であることを知らされた。もちろん、軍政下の国であるから、政治的・思想的には厳しい国で、注意が必要であるかもしれないが・・・今後出来れば、ヌット君のプロジェクトを訪ね激励しチョッコン学校に植林して来て欲しい。20年後に目黒の森が見られるように。なお今回の旅行には、加藤会長以下の温かい激励と支援を頂いた。深く感謝したい。